集団「Emication」別館

楽しく学び,楽しく活動する,笑顔の集団「Emication」。 ふるさとの自然,歴史,風俗などお伝えします。読書や豆知識の発信もしていきます。 活動する人,行動する人,その応援と支援をする集団「Emication」。

海の日。「善福寺縁起(前半)」(つくで百話)

向日葵0715。 今日は7月第3月曜日,国民の祝日海の日(Marine Day)」でした。  細かな雨の降る日でした。梅雨の日が続いて「短い日照時間…」「低温による生育不足…」といったニュースもあり,海を楽しむ気持ちになりにくい日でした。  海の日は,1996年から「海の恩恵に感謝するとともに,海洋国日本の繁栄を願う」として祝日となり,2003年の祝日法の改正で7月第3月曜日となりました。  海に囲まれた日本は,東日本大震災のように“思わぬ災害”もありますが,普段は“多くの恩恵”に与っています。再びの災害を遠慮し,日々の恵みに感謝したいと思います。  みなさんは,海洋の催しを楽しみ,海洋に感謝する一日でしたか。  『つくで百話』(1972・昭和47年 発行)の「文化財と信心」から紹介です。 ********     善福寺縁起  当山は聖徳太子の御創建になりましたもので,御本尊は太子御作の日本武尊と十一面観世音菩薩並に弘法大師御作の昆首羯摩天の二つの御像であります。  当山建立以前人皇十二代景行天皇の御代に日本武尊が東夷を征し給うお途すがら,この地にお立寄りになりましたが,周囲は峯高く,中央は平坦部で,この深山幽谷ともいうべき辺地に,里人らが開拓した水田が沢山できておりましたので,村の名を田原郷とおつけになりました。 善福寺0715。 その後数百年経ちまして人皇十四代推古天皇の御代に聖徳太子が,ここにみえまして,自ら日本武尊の御像を彫刻して宮中に安置し給い田原山善福寺と御命名になりました。即ち白烏神社は,当作手郷鎮護の産土神であります。此のさきに田原坂という所がありますが,当郷の前ですから田原先,田原沢,田原坂というのであります。宮崎は白鳥神社の御先ゆえ宮崎というのであります。また手洗所(ちゃらい)というのは,往昔,日本武尊が御手を洗い給うた所だからであります。  中尊仏本尊十一面観世音は人皇五十代桓武天皇の御宇,延暦二年弘法大師が御来山になりまして霊神昆首羯摩天を彫刻し給うた尊像であります。中郷の開基は,本朝真言宗の真済僧正であります。人皇五十三代淳和天皇の御宇天長元年,大師の御作十一面観世音菩薩を一山の本尊と崇め,伽藍を建立し安置し奉ったものであります。  聖徳太子が当山を創建なされてから,およそ二百四十年を経た頃,寺運衰微し,諸尊神体が壊れましたので,真済僧正が,ぱらばらになっていた御像の部片をあつめて修理されることになりましたが,不思議にも御手が見あたらないので,僧正が新に御手を造り,往古の如くなし給うたので,それより田原郷を改めて作手郷と呼ぶことになりました。尚,当時の山号も,大地六十万由旬の意をとって金輪山善福寺と改められました。その頃,寺家七坊がありました。大坊,岩本坊,杉本坊,池ノ坊,中ノ坊,下ノ坊,松本坊がそれです。亦,弥勒堂,太子殿,三千仏堂,仁王門,山門,其外諸堂倣藍が建ちならんでおりました。  また其の後,村上天皇の御帰依厚く天暦申年に当山を勅願所と定め給い紺泜金坭法華経全巻を奉納せられました。また白鳥神社へは金幣奉納あり,白鳥宮は,本堂の後ろにありましたが,祭礼の時など群衆が雑踏しますので,長者平村に宮社を遷し,神像は,ここにのこされました。今も当山の鎮守,村の氏神であります。白鳥神社は長者平から市場村に移しましたので市場村のお宮を古宮といいました。その後,市場村から寺林村に移しました。今此のお宮は十七ケ村惣産土神社本地の宮と祢することになりました。時は天徳二年二月初午日でありました。  それから二百有余年,当郷野火のため諸民家,当山伽藍,坊舎,宝物等大半焼失いたしましたが観音鎮守太子其他の神仏尊体はのこり給うたので,小堂一棟を建てて,尊体を一所に安置し奉ることになりました。  焼失後の当山を再建されたのは俊乗坊重源上人であります。上人の出生は,当国加茂郡酒呑村鈴木氏であります。先祖は,熊野の鈴木氏であり,当時則定酒呑,九牛平の領主は皆その末葉でありました。 (後半へ続く) ******** 注)これまでの記事は〈タグ「つくで百話」〉で