集団「Emication」別館

楽しく学び,楽しく活動する,笑顔の集団「Emication」。 ふるさとの自然,歴史,風俗などお伝えします。読書や豆知識の発信もしていきます。 活動する人,行動する人,その応援と支援をする集団「Emication」。

「善福寺縁起(後半)」(つくで百話)

花0716。 今朝は小雨が降り,自動車の運転にはワイパーが必要でした。目的地に着いたときは傘がなくても大丈夫でした。  日中は気温も上がり,蒸し暑い日になりました。  梅雨明けが待ち遠しい一日でした。  『つくで百話』(1972・昭和47年 発行)の「文化財と信心」から紹介です。 ********     善福寺縁起(後半) (前半より続く) 俊乗上人は弘法大師の再来といわれました。南都東大寺縁起,江州多賀大明神記録に委しく出ています。上人は南都大仏殿建立の発願厚く,日本国中の人よりは貴賎にかかわらず一人一銭宛勧進を受けて造ろうと思いたち,五畿内を巡歴して近江路にさしかかりました。ここ一高原にのぼりますと西方は湖水満々八景が一目に見える有様は,まことに言語に絶する勝景であります。しばし休息しながら想いますのに,自分は大仏殿建立を発願し,国中人民の一人一銭の勧化をもとめるのは,諸人の他力結縁のためであるが,今五ヶ国を漸く回り終って,ここまで来たが一向埓があかない,これではわれ一生かかっても成就覚束ないから,計画をやめようかと思案しておられるところへ,年の頃六十有余とみえる老翁が来て,湖水を眺めながら斧を磨いでおりました。上人は,老翁に向って「あなたは,わしより先にきて斧をといでおられるようですから,もう刃もついたでしょう。」と尋ねますと翁は「私は針を一本失いまして不便ですから斧をといで針をつくるつもりです。」と答えました。この言葉は上人の肝に銘じました。斧を磨いで針をつくるという人もある以上,国土の一人一人から一銭の奉加進をうけることぐらいたやすいことである。これは正しく神仏のお告げであろうと勇気百倍,決意を新にして近江路から美濃,尾張を経て,三河路に入り,当郷に来て,当山に至り,草堂に仏体があるを伏しおがみ,暫く佇み給うほどに,忽ち闇夜となりました。上人は致方なく堂内に入って荷物を枕としてまどろんでおられますと忽然と異人が現れて「汝の心掛け神妙である。大仏殿の建立成就せば,ここに来りて伽藍の再建あれ」とて往古の由来をのこらず語って,かき消すごとく姿を消してしまいました。上人がハッと驚き眼醒めてみればまだ真夜中でした。上人は,これは正しく菩薩のお告げであろうと思い,我寿命の長久を祈り,再び来て伽藍を建立することを誓い,法楽鮮経礼拝して,山を下り,それより江州多賀大明神に十七日間昼夜参籠して,延命を祈りました。満願の深更に,大明神が出現し給い,左御手に金閣を携え,右の御手に宝劔を持たれ「汝にこれを授与する。」と宣い左御手の閣を給わったとみると夢が覚めました。上人は左右を見廻し,一の閣を手にして,これを見ますと全文字で莚の一字が書いてありました。考えてみますと莚という字はサ延と書いて莚であります。上人の感激限りなく,多賀明神に拝礼して社殿を出で,夫より大仏殿並に当山の建立をされたとのことであります。それより前,全国をくまなく回られましたが,日本だけでは資金不足でしたから大唐(中国)にも渡られ勧化せられました。帰朝後大仏殿の普請成就し,当山は大仏殿より三年おくれましたが,以前にまさる荘厳な伽藍が建立されました。 善福寺0716。 当伽藍の入仏式の導師は重源上人が勤められましたが,南都の僧五十人も参堂供養されました。人皇八十二代後鳥羽院が建久六年崩御遊された時には,寺領として千十八石余を御寄進になったといい伝えられております。また山号は往昔の如く田源山善福寺仏母院といいます。俊乗坊重源上人は当山に自作の木像を遺されました。  その後上人は多賀大明神に至り,法楽礼拝帰命し大明神の鳥居の外まで下られたとき,ふと石に躓き倒れられたと見るまに,上人の体は石となってしまいました。今でも多賀大社烏居腕に俊乗上人命終石というのがありますが真に不思議のことであります。あれといい,これといい大悲成願力は,かくの如く,奇特何にたとえんや。ああ尊し,ああ崇むべしであります。  当山観世音は,巴川の道場,三密不思議の法の山,誠に当国は勿論,遠国他国の道俗男女往来,参籠の徒衆祈願満足,福寿長久,仏意神慮今世安楽後世成仏,疑心を生ずべからずであります。よって縁起件のごとし。 (註) 原文は難解の漢文でしたから,編者がその大意を現代文に書きかえたものであります。 ******** 注)これまでの記事は〈タグ「つくで百話」〉で