「八幡様と弁天様」《作手村のむかし 12》
今日,晴れましたが,日中にぽつぽつ雨粒が落ちてくることもある,不安定な天候でした。
今夜は雨になり,明日は回復,そして明後日は雨…との予報です。雨のない時間を大切にして屋外の活動をしていきましょう。
今日,新城市遺族会理事会でした。夏の事業について検討があり,市役所からの“調査”の回答について確認をしました。
夏は,「終戦の日」(8月15日)があり,戦没者を追悼するとともに,苦難を乗り越えた先人たちが築いてこられた平和な社会に感謝することの機会のある時期です。
戦後70年を過ぎ,“新しい展開”が求められています。昨年度から当市も新しい企画になっているのですが…。
また,“調査”は必要があって行われているとは思うのですが…。
“組織”について考えることのある理事会でした。
文集「こうやまき」(1970年・刊)から,「作手村のむかし」の一話です。
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『八幡様と弁天様』 (文・菅守小6 男子)
昔,戦国時代のころ,菅沼に,菅沼くろえという豪族が住んでいたという話です。その人は,八幡様や弁天様を大切にお守りしていたということです。その人は,神納田といって,今の蔵前の付近に,神様に祭る田んぼがあって,その田んぼの仕事をするには,女の人は絶対に入れなかった。その田んぼでとれた米を,秋になると,酒に造っておみきとして,八幡様や弁天様に祭っていたといわれています。でも,どうして女の人を入れなかったのかなぁと考えたが,どうしてもわからなかったので聞くと,当時の人は,女の人はけがらわしいと考えていたのだそうです。
ある年,菅沼に厄病が流行して、部落の人は、つぎつぎと死んでいった。くろえという人の家でも,その病気にかかり,くろえという人は,助からないと思ったのか,ぼくの家の先祖に,後をたのむと言って,まもなく死んでしまったそうです。でも,どうしてその人のおくさんにたのむといわなかったのだろう。きっと,神の仕事など女の人では,けがらわしいと思ったのだろう。
そのころ,くろえという人の家の前には,弁天ぶちといって,今のくら前橋の土手の所のなぎのあるあたりに大きなふちがあったといわれています。ぼくの家の先祖が祭りはじめたころ,すごい大雨がふって,くら前の弁天ぶちは,うまってしまったとのことです。
ぼくの家の先祖は,こんなあらたかな神様を家で祭っていてはいけないと感じ,八幡様をぼくの家の東の方の山の中へ,弁天様は西の方の山の頂上へ祭り,村中でお祭りするようにしたそうです。そのときも,一晩のうちに大雨がふって,おかめやぶのふちも,上からなぎが出て,ふちがなくなってしまい,そのときのなぎを,つきぬきのなぎ,とよんだそうです。
八幡様は,戦いの神様といわれ,太平洋戦争中には,人々は熱心におまいりしたそうです。小学生も毎週そうじをして,とてもきれいになっていたといいます。
弁天様は女の神様で,安産の神ともいわれ,昔は,赤ちゃんを産むのにも,医者やさんばさんがなかったためみんな家で産んでいたので,弁天様におがんをかけて,無事に産まれると糸を買って来て,お礼まいりをしたそうです。でも,どうして糸でお礼まいりしたのかわかりません。
今では,神様の信者が少なくなったため,おまいりする人がたいへん少ないように感じさせられます。この話は,明治生まれの人に聞き,その人は,子どものころ,おじいさんに聞いた,といっておしえてくれました。
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最近も「女人禁制」が問題になった出来事がありましたが,伝統と社会のあり方には難しいことです。
あなたの周囲には,「女の人はだめ」とか「男の人はだめ」ということがありますか。