集団「Emication」別館

楽しく学び,楽しく活動する,笑顔の集団「Emication」。 ふるさとの自然,歴史,風俗などお伝えします。読書や豆知識の発信もしていきます。 活動する人,行動する人,その応援と支援をする集団「Emication」。

社歌コン。 3-1.11 「奥平貞能(2)」 (作手村誌)

花0318。 雨模様の一日でした。  先日、新聞に「NIKKEI 全国 社歌コンテスト2023」の記事あり、大阪府枚方市の“”が最優秀賞でした。
 「社歌」のコンテストができるほど、今も歌われているんだ…。  「枚方市」の読み方は、「マイカタ市」じゃなかったよな。何だったかな…  市の歌も「社歌」なの… …
 いろんなことを思いながら記事を読みました。  YouTubeチャンネルで公開されている“社歌“を聴いてみませんか。  『作手村』(1960・昭和35年発行)は、「第一編 郷土と自然」から「第二編 村の沿革と歴史」へと続きます。  昨年の大河ドラマ鎌倉時代、そして今年は徳川家康を描いています。  『作手村』(1960・昭和35年発行)から「諸豪族勃興時代」の奥平氏についの紹介です。 ********     第二編 村の沿革と歴史     人物 奥平氏   奥 平 貞 能 (つづき)  元亀元年九月、武田信玄 秋山晴近をして東三河を攻略せしむ、田峯の城主菅沼刑部貞吉、長篠の城主菅沼新九郎正貞等降る。貞能独り猛威に抗し、河合彌兵衛をして木和田村城ヶ根砦を守らしむ、支うる能わず逃れて田原村牛古屋砦に入る、叉支えず、貞能乃ち作手を退きて額田郡久保域を保つ。晴近 貞能の従士山崎善七郎を降す。武田氏更に初鹿野伝右衛門を遺して曰く、今武田と和して味方に属さば本領を安堵して更に新地を加えん、若し肯かずんば田峯、長篠等を先鋒となし大軍を以て圧伏すべし、偶々貞能の弟甲斐にあり、一書を致して降附を勧め来る。是に於て一族老臣以下を城中に招集し一家存亡の重大事を議す。族臣和田出雲某、助次郎貞包等如きは伝右衛門の言を容れずんば武田に組して宗家に反かん と公言し、硬軟両説紛然として殆んど収拾すべからず。貞勝(貞能の父)乃ち曰く、今や山中悉く武田に属して孤城援なく、二百の手勢焉んぞ克く武田の大軍に抗するを得んや、強いて抗して破滅を招かんより一時彼に聴いて時節を待つに若かずと、貞能及び世子信昌、堅く執りて徳川家に離反するを不可とするも、危急切迫せる外部の情勢と複雑微妙なる内部の事情とに制せられ、竟に巳むなく是議に従う、伝右衛門大いに喜んで、貞能の婦人及び一族の子弟の質子を徴す。而して婦人病んで応ずる能わず、列座の一同頗る困惑す。時に貞能の第二子仙丸(十才)進みて曰く。兄九八郎は槍をとつて戦地に馳駆するも、児は幼若にして未だ剣を知らず、家国のため母に代りて質子とならんと、貞能黙して答えず満座粛として声を呑む、竟に仙丸を甲斐へ送るに決す。貞能 黒屋甚九郎重吉に命じ密旨を含めて伝たらしむ。重吉曰く、若し謀計成らずんば徒死に了らんのみ、留まりて一死君国に報ぜんと。貞能曰く、何ぞこれを徒死と謂わんや、戦うものはその数少きにあらず寧ろ卿一人の功を挙ぐべきなりと。重吉優旨に伏し仙丸を伴つて城を出ず。乳母某仙丸に従う、一族日近久兵衛貞友の女於つう(十三才)、一族周防勝次の男虎之助(十三才)亦随う。或は貞友の女を世子但昌の約婚者と称したりとも言う。時に元亀元年九月なり。  貞能 長谷川彌兵衛をして黒屋甚九郎重吉と兄弟を約し姓を黒屋と改め二人の幼児を養育せしむ。後年彌兵衛及び重吉の次男五左衛門共に松平下総守忠明(奥平信昌の四男)に仕えて重臣に列せらる。 (つづく) ********  注)これまでの記事は〈タグ「作手村誌」〉で  注2)本誌の本文内で、小文字や2行表記等されているものを、( )で示している。 【関連】   ◇NIKKEI 全国 社歌コンテスト日本経済新聞)   ◇日経社歌コンテストYouTubeチャンネル)   ◇枚方市 ウェルカムページ     ◇「この街が好き」 盆踊りバージョン 〜みんなの笑顔に会いに行く〜YouTube hirakatacity)