集団「Emication」別館

楽しく学び,楽しく活動する,笑顔の集団「Emication」。 ふるさとの自然,歴史,風俗などお伝えします。読書や豆知識の発信もしていきます。 活動する人,行動する人,その応援と支援をする集団「Emication」。

2-1.6 みかんをめぐる授業 (昭和に生きる)

抹茶0316。 天気のよい一日でした。  故・渥美利夫氏が還暦の年に著した『昭和に生きる』(1987(昭和62)年刊)からです。  渥美氏の教育実践、教育論は、“昔の話”ですが、その“”そして“”となるものは、今の教育に活きるものです。これからの教育を創っていくヒントもあると思います。  本書のなかから、“その時”に読んで学んだ校長室通信を中心に紹介していきます。「考える」ことが、若い先生に見つかるといいなあと思います。  この項は、先日(3/3) 2-1.5の次でしたが掲載を飛ばしてしまっていました。 ********     戦後教育史の片隅に生きる     青年教師時代   みかんをめぐる授業  昭和三十四年のお正月休み、上田先生のお宅にお邪魔にあがっていた。たぶんまだ名古屋の新瑞橋にお住いのころであったと思う。いつものように初志の会のこと、社会科のこと、学級のことなどに話がはずんでいたときのことである。先生があまりにも突然、道徳の指導のことをありのまま書くようにとおっしやったのである。  当時、「道徳の特設時間」をめぐって、教育界は騒然としていた。おそらく、これを“考える子ども”に載せて論争をしようと企ててみえると直感した。それだけに期待にそえる実践記録が出せるのか、まったく自信がなかっただけに、これはえらいことになったと思いながらお宅を辞したことを今も鮮明に憶えている。  一年生を担任していたので、二学期の実践「みかんをめぐる問題」−一年生の道徳特設の時間− を苦心惨憺のすえ原稿用紙十八枚にまとめて先生のところへお届けした。上田先生のねらいは、平凡なわたしの実践をもって特設時間に挑戦することにあったにちがいない。はたせるかな雑誌“考える子ども”の四号(三十四年四月)にでかでかと載ったし、批判感想を書かれた先生方も全国レペルのメンバーにびっくり仰天した。「解説にかえて」の解説を書いてくださった上田先生につづいて、伊藤昇(朝日新聞論説委員)、浜田陽太郎(東京教育大学)、岡野啓(香川大付属坂出小)、木川達弥(東京都指導主事)、矢口新(国立教育研究所)、大野連太郎(国立教育研究所)、飯田芳郎(文部省中等教育課)、込谷雄(東京・業平小)、長岡文雄(奈良女子大付属小)、佐藤克己(東京・石神井小)、大村栄(宮城県教育研究所)、白岩善雄(奈良・帝塚山小)の十余人の学者、実践者が批判・検討に参加している。ここに詳しく述べる余裕はないが、この雑誌の試みが大きな波紋を教育界に投げかけたことはたしかなことであった。  多くの方々が好意的な発言をされていたことは、うれしいことだった。しかし、例外として酷評なされた先生がそのなかにいた。その名は飯田芳郎先生である。わたしにとっては岡崎の師範学校のとき教育学を教えていただいた恩師である。文部省の中等教育課の道徳担当の教科調査官で、特設道徳推進の責任者とすれば、批判の先頭にたたれるのはあたりまえのことといってよかろう。批判は当たるべからざる勢いである。「筆者はかってに自分が描いた『文部省のねらう特設の時間』なる幻像に対して、ひとりで力んでいる感がある。『文部省のねらい』というぐらいなら、当然に文部省の出した道徳指導書の示すところぐらいはひととおり理解しているべきなのに、それだけの努力を払おうとはせず……」といい、続けて「根拠とすべき『道徳の時間』観そのものがゆがんでいるのだから、その結果がゆがんでくるのは当然である。この報告書の前半の実践報告と付記された筆者の主張との間にじゅうぶんな論理的つながりが認められないというのも、根本原因はこのような筆者の態度からきているといってよい……」と、いわれる。そして返す刀で「最後に筆者の社会科そのものに対する理解も不確かである。……」と一刀両断である。 考える0316。 さすがに“学校時代にも勉強していなかった”とは、いわれなかったが、勉強不足もはなはだしく、幻影におびえているのではないかとの指摘であった。読んで少し頭にきたので、失礼をかえりみず“考える子ども”七号(三十四年九月)に、「道徳の時間をこう受けとめる」という反論をかなり強い調子で書いたが、それはそれなりということで論争には発展しなかった。飯田芳郎先生とわたしとの関係は静かな日々が続くかにみえた。  東郷東小学校の十年間の生活──それはわたしにとって三十才をはさんでの十年間であった。生涯の師、人生の師とでもいうべき上田薫先生との出会い、子どもたちとともに苦しんだ社会科指導を核とする学校生活、そこではあいまいなわたしの教育理論は通用しなくて、だんだんととぎすまされる楽しい研鑽の日々でもあった。大げさと人は言うかもしれないが、教師としての生き方、それにものの見方、考え方の骨格が、ほぼこの時代にでき上がったといってよい。その意味においてわたしを育ててくれた学校という気がしてならないのである。まことにささやかではあったが、自分の考えをつくりあげていった刻々の思い出のなかにうかぶ人たちに、いま改めて謝意を表したいと思う。 ********  注)これまでの記事は〈タグ「昭和に生きる」〉で  注2)掲載しているイラストは、学年通信(1993・1994年度)用に教員が描いたもので、図書との関連はありません。