6(5-13) 戦争のころの学校と子ども (わたしたちの村つくで 改訂版)
天気のよい日になり、気温が上がり暖かい一日でした。
今日、久しぶりに“名刺交換”をしました。初めてお会いしたと思いますが、「○○を見て…」「○○は…」と知っている方でした。
ありがとうございました。これからよろしくお願いします。
ところで、新型コロナ禍で“手渡し”を伴う挨拶は避けたり、そもそもオンライン会議の場では渡せません。名刺交換の“作法”は、これからの社会でも残っていくでしょうか。
“名刺”のことを、いろいろ思う機会でした。
郷土読本『わたしたちの村 つくで』(2004新改訂版発行)の「6 作手村のうつりかわり」からです。
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5 明治から平成へ
戦後の作手村
戦争のころの学校と子ども
苦しかった生活
戦争のころになると,食べ物が不足するようになって,和田の畑はクワ畑からイモ畑に変わったよ。田んぼは,お米が1反で4・5俵しかとれないのに,3分の2ぐらいは供出してしまうので,農家でも食べ物にこまってね。くず米をひいた粉で作っただんご汁やいもがゆのぞうすいが多かったよ。
戦争が終わっても,食料だけでなくいろんな物がなくなってとてもこまったよ。子どものカバンがなかったものだから,着物の帯のしんで背負うカバンを作って学校に行かせたよ。
男はみんな戦争でとられてしまって,子どもを育てるのも牛を使って田畑を耕すのも,なみたいていのことではな
かった。でも,あの苦労があったおかげで,どんなことでもがまんできるようになったよ。
(和田 坂ロ好子さん) ********
注)これまでの記事は〈タグ「新わたしたちの村」〉で
注2)郷土副読本は,小学3,4年生に向けて「ふりがな・るび」がたくさん付いていますが,掲載にあたっては省いています。
注3)多くの写真や図版が載っていますが,すべてを紹介(掲載)していません。ご了承ください。