集団「Emication」別館

楽しく学び,楽しく活動する,笑顔の集団「Emication」。 ふるさとの自然,歴史,風俗などお伝えします。読書や豆知識の発信もしていきます。 活動する人,行動する人,その応援と支援をする集団「Emication」。

感染者の声。 3.(3-2) 工業のあらまし (わたしたちの村)

像0817。 今日も雨の一日でした。  午前中,豊橋まで用事で出かけました。途中,激しく雨の降ることもありましたが,道路の冠水や危険を感じることはありませんでした。  用事を済ませ,車を走らせると激しい雨になりました。それが豊川市内に入ると,雨が上がり雲の切れ間から青空が見えました。気づくと,道路が乾いています。朝のようすとは大きく違っていました。長い時間,雨が上がっていたようです。  雨の日が続く中,ほっとできた天候だったことでしょう。  今日,ポッドキャストを聞いていて,予備校講師の中西光雄さん(シンガーソングライター 中西圭三さんの兄)が,新型コロナウィルスに感染し,その闘病生活をFacebookに投稿(下部にリンク掲載)したことを知りました。ネットで話題になっていたようですが,気づきませんでした。  早速,読みました。
(略)入院後直ちにステロイドのが投与がはじまりました。熱は下がったのですが、肺炎は悪化していったらしく、重症者にだけ適応されるエクモ(体外型膜式人工肺)がある横浜市大附属病院に転院しました。そこからの記憶がありません。(略)
 エクモを装着する重傷者のいることはニュースで聞きますが,その方の“ようす”を聞く・読むことは初めてでした。  中西さんの伝えていただいた“医療者たちは強い使命感と献身”の姿に応えられるのは,「この厄介なウイルスに感染しない」ことだと,改めて思いました。  「マスク着用」「こまめな手洗い・消毒」「こまめな換気」「3密(密集・密接・密閉)を避ける」「よく眠り,バランスよく食べる(免疫力を高める)」……  心がけて過ごしましょう。  郷土読本『わたしたちの村 つくで』(1995・平成7年 改定発行)の「三、作手村の産業」からです。 ********     (三) のびゆく工業 工場0817。   2 ふえてきた工場  こうした村の考えによって,1968(昭和43)年,清岳に福田紡績(規在の株式会社『三ツ知』)が最初に誘致されました。当時この工場で働く人の数は,110人もあり,現金での収入があまりなかったこのころとしては,とても喜ばれました。福田紡績にならって,村では久田工業を始め,次々に工場を誘致していきました。  そのころ,国道301号線を始めとする道路の整備が進み,ちょうどトラックによる輸送がふえ始めたこともあり,作手村の工場はますますふえていきました。また,土地が安く広く使えることなども,進出のための良い条件となりました。こうして今では,全部で20もの工場が作られ,450人ほどの人たちが働いています。  工場の仕事は,農業などとちがい,仕事をする時間が決まっており,しかも安定した収入を得ることができるため,工場に勤める人たちがふえています。働く人0817。
   〔工場のおじさんのお話〕  この工場の建物は,昭和42年に紡績工場として建てられました。しかし,昭和50年代に入ると,外国からの安価な糸の輸入が増えたため,紡績の仕事だけでなく,自動車部品もつくる工場となりました。  平成3年には,株式会社三ツ知作手工場として生まれ変わり,パワーウィンドウ・ロックなどの自動車部品を主に製造しています。そして,製品の安定供給のために,タイのバンコクアメリカのデトロイトにも会社を設立しました。また,トンネルの継ぎ手の部品を手がけるなど,自動車以外の新しい分野への進出を図り,活気ある会社に成長しました。
********  注)これまでの記事は〈タグ「わたしたちの村」〉で  注2)郷土副読本は,小学3,4年生に向けて「ふりがな・るび」がたくさん付いていますが,掲載にあたっては省いています。  注3)多くの写真や図版が載っていますが,すべてを紹介(掲載)していません。ご了承ください。 【中西 光雄さんFacebook 2021年8月1日 8:24】
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