マウント? 2.(10-2) 大正から昭和へ (わたしたちの村)
雨模様の天候で,短時間でしたが雷鳴があり激しい雨の降ることがありました。
ちょうど移動して用事のある建物に向かう時,突然の雨で,傘もなくぐっしょりでした。
梅雨の時期は,傘を備えないといけないですね…。
最近,テレビ番組で「マウントして…」と言う場面が気になっています。
昔(?)のテレビ番組で話題になった「マウンティング」のことですが,定着していたのでしょうか。 養蚕がさかんになるにつれ,クワ畑がふえ,畑にはほとんどクワが植えられるようになりました。作手村では1921(大正10)年ごろがクワ畑が一番多かったといいます。
養蚕がさかんになると,まゆから生糸をつくる製糸工場が新城や豊橋の方にたくさんでき,作手村からも働きに行く人がありました。
3 生活のうつり変わり
大正の終わりから昭和の初めにかけて,作手村の人たちの生活が変わってきました。
小学校の子どもたちの服装も左の写真のように,着物から洋服へとしだいに変わってきました。
へやの中で火をたくいろりをやめてこたつにしたり,障子のかわりにガラス戸を使いはじめたり,屋根をかわらぶきにする家も出てきました。
今,私たちは電気がなくては,一日もくらせないほどになっていますが,作手村じゅうに電気がいきわたったのは,あまり早くありません。しかし,見代は1908(明治41)年に豊橋電燈株式会社が見代発電所をつくったので,その時から電燈がつきました。これは,愛知県内でも二番目の早さです。しかし,見代の発電所は1959(昭和34)年になくなりました。
作手の各地区に電燈がついたのは,左上の表のとおりです。
このように,作手村全体に電気がゆきわたったのはたいへんおそいのですが,昭和の初めには,村の中ほどの地区には電気が入ったので,ラジオを聞く人も少しずつできてきました。そのころは,電池で聞くことができるトランジスターラジオはなかったのです。
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注2)郷土副読本は,小学3,4年生に向けて「ふりがな・るび」がたくさん付いていますが,掲載にあたっては省いています。
注3)多くの写真や図版が載っていますが,すべてを紹介(掲載)していません。ご了承ください。
マウンティングとは,本来,動物が自分の優位性を表すために相手に対して馬乗りになる様子をいいます。そこから,人間関係においては,「自分の方が優位」と思いたいがゆえに,「私の方が他人よりも幸せである」と一方的に格付けし,自分の方が立場は上であると主張し,更にそれをアピールすること。使われている場面にしっくりこないことが多く,言葉が気になります。みなさんは,いかがですか。 郷土読本『わたしたちの村 つくで』(1995・平成7年 改定発行)の「二、作手のうつりかわり」からです。 ******** (十) 大正から昭和へ 2 米作りと養蚕 1916(大正5)年に,南設楽郡の7つの町村で,米を作った田の面積は1,467ヘクタールで,そのうち三分の一以上の510ヘクタールが作手村です。そして,10アール当りの収穫高も作手村が最高です。 作手の農業は米作りが中心でしたが,お金を手に入れるための大事なしごとは養蚕でした。カイコを飼うことを養蚕といいます。