2.(11-1) 戦争と郷土 (わたしたちの村)
予報では「雨」の時間もありましたが,天気のよい晴れた一日でした。
室内干しが続いて,洗濯物がしっかり乾かない感じでしたが,気持ちよく乾きました。
新型コロナ禍で,旅行に出かけたり,宴会を大人数で行ったりする方々はいませんが,「何でこの時期」と思う記事がありました。
その記事は添乗員の声をもとに書かれていて,その中に「荒れた宴会をする“3つの職業”」の項がありました。
宴会係が忌み嫌う3つの職業は…。
1つ目は警察,2つ目は教師,3つ目が銀行員。だそうです。 記事では,これらの職業は「いずれも仮面をつけなければできない仕事」だと,荒れることを説明していました。 これらの職に就いている方々,合っていますか? いかがですか。 郷土読本『わたしたちの村 つくで』(1995・平成7年 改定発行)の「二、作手のうつりかわり」からです。 ******** (十一) 戦争と郷土 1 中国との戦いと国民学校 大正の終わりごろから昭和の初めにかけて,日本は不景気がひどくなり,農民や働く人びとの生活は大変苦しくなりました。そこで,日本の軍隊は,広い中国大陸を手に入れようと,1937(昭和12)年7月7日に中国の北京の近くで中国軍と戦争を始めました。これが日中戦争です。 日中戦争が始まると,この戦争のために,作手村では279人が召集されて,そのうち23人がなくなりました。 日中戦争が始まったころから,小学校の勉強もだんだん軍国主義になり戦争を進めるのにつごうがよいように変えられました。1941(昭和16)年には,小学校はみんな国民学校になり,作手村の学校も,作手村巴国民学校というようにいっせいに名前が変えられました。 国民学校は「日本の国のためにつくす,強い国民をきたえる」ということが目的でした。だから,教科書をつくり変えたり,体操や柔道,剣道が大切にされました。また,国民学校は,初等科6年が義務教育となり,その上に2年の高等科がありました。よその国に負けないような国の力を育てるために,全国民がすぐれた力を特っていなければならないと考えられたからです。 2 太平洋戦争 1941(昭和16)年12月8日,日本は,アメリカ・イギリス・オランダ・中国などの連合軍を相手に戦争を起こしました。こうして,太平洋戦争が始まったのです。 1945(昭和20)年8月,広島市と長崎市に原子爆弾を落とされ,もう戦争を続けることができなくなった日本は,8月15日に無条件降伏をして,長かった戦争がやっと終わりました。この戦争で,作手村にも,高里・須山・中河内などに爆弾が落とされました。 作手村で,太平洋戦争のために死んだ人は,192人です。日露戦争の15人,日中戦争の23人と比べて,太平洋戦争がどんなにはげしい戦争であったかが,このことによってもわかります。 ******** 注)これまでの記事は〈タグ「わたしたちの村」〉で 注2)郷土副読本は,小学3,4年生に向けて「ふりがな・るび」がたくさん付いていますが,掲載にあたっては省いています。 注3)多くの写真や図版が載っていますが,すべてを紹介(掲載)していません。ご了承ください。