2.(10-1) 大正から昭和へ (わたしたちの村)
朝は雨が降っていましたが,日中は雨の止む時間が長く,傘をささずに行動ができました。
活発な梅雨前線の影響で,中国地方を中心に,昨日から続く大雨,線状降水帯の発生により記録的な大雨となっています。
土砂災害や川の氾濫に厳重に警戒し,気象情報や自治体の情報を的確にとらえ,身の安全を第一に行動をしましょう。
みなさん,安全にお過ごしですか。
郷土読本『わたしたちの村 つくで』(1995・平成7年 改定発行)の「二、作手のうつりかわり」からです。
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(十) 大正から昭和へ
1 交通の発達
大正時代から昭和の初めにかけて,道路がととのえられ,作手のようすも少しずつ変わってきました。
作手村の中を南から北へ通っている国道301号は,豊田市と新城市を結ぶ大切な道です。もとは挙母街道ど言われ,1876(明治9)年に県道になりました。このころは,けわしい坂道ばかりで,荷車も通ることができず,馬や牛のせなかに荷物をつけて運ぶことができるだけでした。
1917(大正6)年から1925(大正14)年にかけて,この挙母街道が田原まで整備され,新城と作手の行き来が大変便利になりました。
岡崎から中河内を通り,田原で豊田新城線といっしょになり,さらに北へ向かって菅沼・守義を通り,田ロヘ行く岡崎設楽線も,村の南と北をつなぐ大切な道路です。この道路も大正の終わりから昭和の初めにかけてととのえられました。
そのほか,昭和の初め(太平洋戦争まえ)までに整備されたのは,宮崎を通って岡崎へ行く道,戸津呂から塩瀬へ向かう道などです。
大正の初めごろから,荷物をつんだ車を馬にひかせて,急な田原坂を通り,岡崎へ行き来する人がありましたが,挙母街道がととのえられると,馬車や牛車で新城へ荷物を運ぶ人ができました。
1928(昭和3)年,東三自動車株式会社ができて新城と清岳の間で6〜8人くらいが乗れる乗合自動車を運転するようになりました。続いて,1933(昭和8)年には宮崎と高里の間に,翌年には,岡崎と田原の間に乗合自動車が通るようになりました。新城と清岳の間の乗合自動車は,その後高里までのばされ,1935(昭和10)年ごろから中型のバスになりました。
乗合自動車ができても,作手の人たちは歩くことになれていたこともあって,初めは,あまり乗る人がなかったということです。しかし,村の人たちの生活が変わり,村外に出る機会が多くなったので,バスは村の交通機関として,大切な役割をはたすようになりました。
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注)これまでの記事は〈タグ「わたしたちの村」〉で
注2)郷土副読本は,小学3,4年生に向けて「ふりがな・るび」がたくさん付いていますが,掲載にあたっては省いています。
注3)多くの写真や図版が載っていますが,すべてを紹介(掲載)していません。ご了承ください。