雑節「入梅」。 2.(3-2) 山城をつくった武士たち (わたしたちの村)
晴れていましたが,夏の暑さのない一日でした。
陽気がよく,気持ちよさそうにバイクや自転車を走らせる姿が目立ちました。午後,自動車を運転していて,近づいてきたバイクを追い越させました。ライダーがリュック(?)を背負っていました。
そのリュックから"顔”が覗いており,よく見ると○○がいるようです。
専用のバックのようで,ライダーと一緒に"風を楽しむ”仕かけがされたものでした。
○○は,楽しんでいたのかな…。
昨日(6月11日)は,雑節の一つ「入梅」でした。
梅の実が黄色く色づき,梅雨に入る頃です。この日から約30日間が梅雨の期間になります。気象の梅雨とは異なります。
昔は,現在のように気象情報が発達していないため,農家が田植えの日を決めるうえでも,梅雨の時期を知ることは重要でした。江戸時代,そのための目安として,暦の上で入梅を設けたのだと考えられています。
郷土読本『わたしたちの村 つくで』(1995・平成7年 改定発行)の「二、作手のうつりかわり」からです。
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(三) 山城をつくった武士たち
2 奥平貞昌(信昌)と長篠の戦い
貞昌の子貞勝や,その子貞能の時代になると,今川氏がおとろえてきました。そのため奥平氏は徳川氏に味方しました。しかし1570(元亀元)年,武田氏(信玄)がせめてきたことにより,武田方につかざるをえませんでした。そこで貞能は,長男貞昌(信昌)と結婚の約束をしたおふうと,二男の仙丸,それに一族の子虎之助を,武田氏に人質に出しました。ところが貞能・貞昌父子は,徳川氏に味方をすることに決めていたのです。そして1573(天正元)年,ついに貞能父子は亀山城を出て徳川方につきました。おこった武田氏(勝頼)は,人質の三人を処刑してしまうのです。
人質おふうの運命 人実になって三度目の秋を,おふうは甲州(山梨県)でむかえました。ここでは,琴や鼓などを教えてもらえるなど,人質といっても,それほどひどいくらしではありませんでした。 ところがある日,武田の家来が突然おふうに縄をかけました。亀山城の貞能・貞昌父子が武田氏を裏切ったからです。おふうはろうやに入れられました。徳川家康の長女亀姫が,貞昌の妻になる話も伝わってきました。「自分が妻になるはずだったのに。」おふうは亀姫をうらめしく思いました。 まもなく勝頼は,人質の処刑を命じました。三人の処刑地は鳳来寺の山の中です。鳳来寺の八つ(10時)の鐘を合図に,16歳の無力な命が散りました,ちょうどそのころ貞昌は,処刑地から数キロメートルはなれた長篠城にいたのです。徳川方についた貞能は,家康と行動をともにして,貞昌は長篠城主になりました。勝頼は1575(天平2)年,甲州をたち,三河にむかって進んできました。ここで有名な長篠の戦いがおこるのです。21歳の貞昌は,500人の兵で,15000人の武田軍を防ぎ,織田・徳川の連合軍が武田を打ちやぶりました。 この戦いの活躍により,貞昌は家康から亀矩を嫁にもらい,信長からは「信」の一字をもらい,「信昌」と名のりました。そして新城城主から上野国(群馬県)宮埼の城主となり,さらに美濃国(岐阜県)加納10万石の大名にまでなりました。 江戸時代の初め(1602年)には,信昌の四男松平忠明が亀山城に入り,作手の地を治めています。この忠明は家康の養子であり,のちに大阪城主や,姫路城18万石の城主となり,西国探題にまで出世しました。 信昌の子孫は,宇都宮,山形,丹波(京都府)宮津とうつり,豊前国(大分県)中津10万石の大名として明治をむかえ,今日まで続いています。 ******** 注)これまでの記事は〈タグ「わたしたちの村」〉で 注2)郷土副読本は,小学3,4年生に向けて「ふりがな・るび」がたくさん付いていますが,掲載にあたっては省いています。 注3)多くの写真や図版が載っていますが,すべてを紹介(掲載)していません。ご了承ください。