トークイベント。仔馬の行列(2) (つくで百話 最終篇)
天気の良い日でしたが,予報のような暖かい日にはなりませんでした。寒かった。
午後,第5回全国小中学生プログラミング大会の最終審査・表彰式に合わせて行われた トークイベント「子供とコンピューターのこれからについて語ろう」を視聴しました。
トークイベントでは,研究者の立場から豊福晋平氏がGIGAスクール構想による1人1台端末のある学びを,保護者の立場から神谷加代氏が子供のディバイス利用やプログラミング学習を,それぞれの視点にしながら進みました。
神谷氏の語る“子供の遊びの姿”,そして豊福氏が見ている“教員の姿・意識”に,大きな乖離があります。
すべての学校で,GIGAスクール構想により1人1台端末の環境が整いました。これを使うのは“子供”であり,その学びを引き出す(?)“教職員”であるよう,先生方の変化が急務のようです。
4月まで1か月,学校が変わっていくことを強く願うトークイベントでした。ありがとうございました。
『つくで百話 最終篇』(1975・昭和50年7月 発行)の「民族と伝承」の項からです。
********
仔馬の行列 平松宥明
(つづき)
産馬の奨励
作手郷の産馬の歴史は旧い。米福長者が産馬を奨励して百姓に馬を飼わせ,軍馬を提供したことは人口に膾炙されている。作手高原の広大な山野は牧畜の適地であったらしい。しかし原産の作手馬は体軀倭小で,力も弱かったので,これを改良するために先進地の名馬を移入しようとする企ては,明治十年頃から先覚者たちによって企図された。記録によると明治十一年四月,島田村の樫本七平らの同志相図り県令安場安和に請願して,奥州の南部地方から優良種馬を購入して馬匹改良につとめたとある。優良馬移入は,その後も続けられ,遠く北海道馬の導入も行われた。これらの種馬が作手郷に繁殖して馬匹改善に寄与したものであった。
優良馬の普及と共に,明治二十年代には郡費を以って牧畜講習会を開催したり,優良牧草の種子を購入して,その試作地も設けている。その当時,試作地として選定された菅沼や高松の山林には,チモシイ・ライグラスなどの牧草が大正末年頃まで残存していた記憶がある。
近代の作手馬
明治・大正時代には,作手村の農家には一頭乃至二頭の馬が常時飼育されていた。夏になると,馬草刈りが百姓の重要な仕事であった。朝早く馬をひいて入会山へ草刈りに行き,馬に一駄つけて自分も一背負しょって帰り,それから田畑の仕事をする。精分の良い者は夕草刈りにでかける者もあった。土用になると草刈りは一層はげしくなり,乾草をつくって冬の飼料にしたのであった。
私の家は寺院であったが,男衆が居たので馬を二頭飼っていた。
明治二十年頃になると,作手馬は名倉馬と共に三河産馬界の双壁として高く評価されたものであった。
立地条件に恵まれた関係もあって,戦国時代以降,作手馬は軍馬として多数徴発されている。日露戦争当時,騎馬戦は戦場の花形であった。その頃,人気を呼んだ軍国絵巻の一・二枚が,わが家の勝手にも貼ってあった。軍馬に徴発された馬が出発するときには,赤飯を炊いたり,昧噌汁をつくって祝ってやった。とにかく日露戦争の勝利の背後には,軍馬の功労があったことは見逃せない事実であった。
昔から,川合部落西畑の牧場は有名であった。太平洋戦争中は軍馬の休養牧場として,常時十数頭の馬が放牧されていた。約二十ヘクタールの牧場の周囲は,背丈くらいの土壘がめぐらされ,縮万里長城の景観が見受けられた。
ここも,終戦後小野田牧場として百余頭の乳牛が飼育されることになり,馬から牛への変移の世相を反映している。かくて往年の作手馬の姿は抹消されてしまった。
********
注)これまでの記事は〈タグ「つくで百話最終篇」〉で
注)『続 つくで百話』の記事は〈タグ「続つくで百話」〉で
注)『つくで百話』の記事は〈タグ「つくで百話」〉で