集団「Emication」別館

楽しく学び,楽しく活動する,笑顔の集団「Emication」。 ふるさとの自然,歴史,風俗などお伝えします。読書や豆知識の発信もしていきます。 活動する人,行動する人,その応援と支援をする集団「Emication」。

大昔の稲作(1) (つくで百話 最終篇)

巴川1118。 朝,湿って見える景色でした。夜に雨が降ったようです。晴れた日が続いて乾燥していた空気が,しっとりした感じでした。  用事を済ませ次に向かう途中,砥鹿神社の前を通ると駐車場に車がいっぱいでした。  立ち寄りました。  「とが楽市」が行われていました。毎月第三水曜日に開催されている“”でした。  移動販売車やテントが並び,知人の店もありました。“神社の縁日”とは違った雰囲気,客層でした。  帰りに巴川(作手東高松)を回って,紅葉のようすをみました。  とても綺麗に色づいていました。今が見頃です。    『つくで百話 最終篇』(1975・昭和50年7月 発行)の「民族と伝承」の項からです。 ********     大昔の稲作   西尾敏男  一、  愛知県の山間部で「田どころ」といえば,作手,名倉,津具であるが,中でも作手は群をぬき名倉,津具の比ではない。新城から登っても,本宿から登っても,岡崎からでも,山を登りつめて,目の先が急に明るくなったとき,作手の外面が開けてくる。在所へ来たなと思い,何か胸がはずんでくる。清岳・高里・田原へかけての外面は信濃路か,飛騨路へでも行かなければ見られない高冷地の稲作平野だ。それだけに作手の今日は稲とは切っても切れないものがあることは間違いない。作手ばかりではなく,日本そのものの発展が稲作農耕とともにある。  私たちが子供のころ,もうかれこれ五十年前になるが、田植休みというのがあって,学区の田植の盛りには,七日から十日くらいの農繁休暇があった。朝起きて雨戸を明けると,前の苗代で祖母と母が苗をとっていた。もう長い短冊の半分ぐらいは苗束になって踏切に並んでいる。農繁期とはいっても,小学校低学年の子供に出来る仕事はそんなにない。苗代の中ごろにある苗を,五〜六把ずつ両手にもって,ジャージャー水を落しながら畦道へ提げ出すくらいだった。外面へ行くと,もう綺麗に代掻きされた田に父が金肥をふっていて,腹から尻のあたり一面に泥水に濡れた牛が畦草を食んでいた。それからが私の仕事である。「大足」を踏むのである。一寸角ほどの材で幅一尺,縦二尺ほどに枠組みされた真中に縦板が一枚打ってあって,下駄みたいに緒がすげてある。枠の先の両端に丈夫な縄が二本ついていた。その大下駄を履き,先の縄をもって,踏み出すたびに手で引きあげながらすすむのである。田の長辺に沿って,行ったり来たり叮嚀に踏みならしていく。父のふった金肥を地表浅くふみ込んでいくのと,処どころに顔を出している山柴をも押し込んでいくのが主なねらいであったろうと今になって思う。その大足なるもの,実は今日や昨日にはじまったものではなく,田下駄と称し,或いは大足と呼ばれて,大昔の歴史の本に出てくるのである。 ********  注)これまでの記事は〈タグ「つくで百話最終篇」〉で  注)『続 つくで百話』の記事は〈タグ「続つくで百話」〉で  注)『つくで百話』の記事は〈タグ「つくで百話」〉で 【関連】   ◇三河國一之宮砥鹿神社   ◇〜とが楽市〜しかファミリー