集団「Emication」別館

楽しく学び,楽しく活動する,笑顔の集団「Emication」。 ふるさとの自然,歴史,風俗などお伝えします。読書や豆知識の発信もしていきます。 活動する人,行動する人,その応援と支援をする集団「Emication」。

Go To Eatキャンペーン。大昔の人のくらし(6) (つくで百話 最終篇)

空1021。 天気の良い日になりました。  今日,昼食のとき「【愛知県】Go To Eatキャンペーン食事券」を利用しました。  あえて選んで入った店ではありませんが,美味しい食事をいただき,“ちょっとお得な気分”で支払いを済ませました。  ごちそうさまでした。  次は,予約して利用しようか…。  『つくで百話 最終篇』(1975・昭和50年7月 発行)の「民俗と伝承」の項からです。 ********     大昔の人のくらし   沢田久夫   (6) おわりに  十年一むかしという言葉があるが,これでは短かすぎて,むかしという感じはなく,少くとも百年やそこらたたないと実感が湧かない。そこで,むかしむかしを千年と仮定すると,そのまたむかしは有史以前ということになる。そんな大むかしのことが,どうして分ると言う人が居るかも知れない。まことにごもっともである。  一千年むかしといえば,平安時代の中頃である。その頃の作手はどうであったか。須山の金輪山善福寺の縁起によると,開山は聖徳太子(六二八没)といい,郷社白鳥神社は創建不詳だが,天徳二年(九五八)村上天皇の奉幣をうけたという。寺院も神社も,兎角その創立を古く言いたてる癖があり,伝えをそのまま信ずるわけにはいかない。殊に聖徳太子のような貴人が,ろくな道とてもなく,治安も悪い僻遠の地に旅をされるわけがない。今までの史書が太子建立と伝える四天王寺はじめ七大寺すらが,近代史学の光で照すと,どれ一つ実証できないという。従って一千年前に,作手に社寺が存在したかどうか,頗る怪しいといわねばならない。  しかし,これは何も作手に限ったことではない。日本の歴史にしてからが,古代史ともなると深い霧に被われたようなもので,分らないといえば何もかも分らない。ただ有難いことに,ところどころ霧の切れ間や,うすい所があって,そこからちらりと中が見えることがある。「前漢書」「魏志倭人伝」──それがたとえ薄ぼんやりでも,ほんの少しであっても,何も見えないよりはましである。学者たちは,それを手がかりにして,霧の中に隠されているものが如何なるものかを探そうとしている。それが現代の史学の姿勢だ。日本の古代史で,どうやらはっきりするのは,大化の改新頃からだという。しかし,文字もない悠久万年にも及ぶ日本の有史以前のことなど,到底わかるはずがないと人は言うかも知れない。  しかし石器があり,土器があり,住居址がある。人は確かに住んでいたのだ。貝塚や焼灰の堆積の中からは鳥獣の骨にまじって人骨が,石灰岩の裂目からは化石人骨も出てくる。しかし,それらの遺物をいくら集めたところで,物は所詮,物にすぎない。それがいつ,何処で,どうして使われたか。それを使った人は何を考え、何をよろこびとし,何を悲しみとしたかが分らなくては,大むかしの村の姿は,人の暮しは出てこない。  私の,このささやかな小文は,従来の村誌や報告書が,遺物や遺跡の研究や紹介だけに終って,それを読んでも村の古代生活の姿が一向に浮んで来ない。私たちの先祖のくらしが,子孫である私たちの心に通って来ないという不満を,何とかして満たしたいという大それた望みであった。しかし,現実にはごらんのような結果に終り,大志も空振りに終ったようだ。たとえおぼろげでも,ないよりはましだという人が一人でもあったら,私の幸いこれにすぎるものはない。      (郷土史家  設楽町東納庫) ********  注)これまでの記事は〈タグ「つくで百話最終篇」〉で  注)『続 つくで百話』の記事は〈タグ「続つくで百話」〉で  注)『つくで百話』の記事は〈タグ「つくで百話」〉でGo To Eat関連】   ◇【公式】Go To Eatキャンペーンあいち   ◇ホットペッパー   ◇食べログ   ◇ぐるなび   ◇Yahoo!ロコ