昔話「さいの神」他 (続 つくで百話)
今日も暑い日でした。
日中,雨が降り出しそうな空になりましたが,降ることはありませんでした。風が弱く“心地よい”ということはありませんでしたが,風を感じて過ごしやすい一日でした。
今日,新型コロナ禍のなかで進めてきた「オンラインの活動」について“評価”を行いました。
その“基準”について,初めは“これまでのもの”で行いましたが,その結果を見て「あれっ?」という違和感を感じました。
オンライン・テレワークでは,その課題も成果(物)は,これまでと異なります。“別の基準”で評価すると,先とは別のものが出ました。
これが“今回の評価”です。
新型コロナ禍のもとで,これまでと異なる“価値観”が生まれています。それに気づけて良かった。
『続 つくで百話』(1972・昭和47年11月 発行)の「昔話」の項からです。
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昔話「さいの神」 守義 原田博
守義の横吹と儀光の境と思われる地点の道路脇に,ささやかな雨覆の中に,なんともわからない自然石と,石の地蔵尊,児安観音,馬頭観音がお祀りしてあります。これを高橋の地蔵ともいっています。
地蔵尊には,赤い帽子をかぶせ,涎かけが掛けてあります。また平たい石に穴をあけてつるしたものや,黒もみじの木を一〇〜一五センチメートルくらいの長さにきって,それを細かく割って,紐で編んで一連としたものなどもつるしてあります。何れも,子供の病気全快を祈願した人たちが満願お礼に奉納したものであります。石は耳だれ,黒モミヂは歯痛の全快お礼によるものときいております。
さいの神の信仰は,疫病除けのために祀られたものと思われますが,地蔵尊と同居したために子供本位の神様にかわってしまったらしいといわれております。
さいの神は,上菅沼と善夫にもありますが,両所とも,よそからの帰りに,そこを通るとき小石を投げつける風習がありました。鬼追いの意味でしょう。
編者注 さいの神は,中河内,東田原,見代にもみつかっていますが,調べたら,まだ他にもありそうに思われます。
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昔話「まん岳明神塚」 守義 原田博
まんがんさまとも土地の者は呼んでおりますが,守義仏前横の川下で,県道から一〇メートルくらい上に,立派々石碑が建っております。年号が書いてないのでいつ頃の建立かわかりませんが,天保年中と推測されます。昔,どこかの修験者が回国の途次,ここで急死したので,村人がその供養のために建てたものといわれております。
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昔話「平野孫兵衛の屋敷」 守義 原田博
守義部落の柿曽根にある原田正雄,原田博,原田岩三郎の屋敷や畑を「古やしき」と呼んでおります。ここは平野孫兵ヱの邸宅の址といわれております。
平野孫兵衛は,作手の亀山城主奥平貞能の家臣で,この地方を支配しておりましたが天正三年五月二十日,長篠合戦で討死しました。その後嫡子彦兵衛が居住しておりましたが,天正十八年奥平信昌が上州に移封された時,それに従ってうつりましたので,その屋敷が畑となったといわれております。
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注)『つくで百話』の記事は〈タグ「つくで百話」〉で
【おまけ 1】
H28年度,田原市のPR動画コンテスト最優秀賞 加藤善夫さんの作品。
【おまけ 2】
ブログ「妹尾昌俊アイデアノート〜ステキな学校、地域、そして人たち」より。
テーマは「withコロナ時代の教職員の働き方を考える」。