集団「Emication」別館

楽しく学び,楽しく活動する,笑顔の集団「Emication」。 ふるさとの自然,歴史,風俗などお伝えします。読書や豆知識の発信もしていきます。 活動する人,行動する人,その応援と支援をする集団「Emication」。

作手の昔の道(4)(続 つくで百話)

花0617。 久しぶりに“公共交通機関”を利用しました。  街のようす,駅のようす,車内のようす…  入館前の体温チェック,健康確認…  いろいろな発見がありました。そして思うことが…。  『続 つくで百話』(1972・昭和47年11月 発行)の「作手の昔の道」の項からです。 ********     作手の昔の道   雁峯山を越えた道 (つづき)  昔,新城町本町(今の中部電力営業所付近)に新城元標という大きな木材の標柱が建ててありました。この道路元標を基準にして各町村への里程がきめられておりました。作手関係の分を拾ってみますと,次のようになっておりました。  保永村 二里〇一町  杉平村 二里〇ニ町  荒原村 二町〇九町  田代村 二里一三町  大和田村三里二一町  高松村 二里三四町  巴村 三里二八町  田原村 四里三〇町  菅沼村 五里二七町  足助みちの中で,杉平から悪る石坂を小林へ登る坂や,下手洗所と鴨ヶ谷の間辺には,太古の支那の道のように,道路の土砂が流れて,西側が二,三メートルの壁のように高くなっているとこがあります。御前石峠を南へ降った坂の中腹にも,こんなとこがよくみうけられますが,これらの道が千数百年も前から開けたふるい道であることを物語っているようです。  作手郷の南部や北部は概して,坂の多い細い道,巾一メートルくらいが普通で,一番広いとこでも一,五メートルまででしたから,牛,馬に荷をつけて通るのが精一杯でした。それが中央の平坦部になると二メートルくらいの広いよい道になったから,手車も使用されて,物資の運搬も,大変楽になりました。甘泉寺,楽法寺,禅源院などの大きなお寺にはお駕龍もあって,和尚さまの外出のときには,これが使われました。乗馬で通行する人の姿も,よくみうけられたそうですが,乗っていた人も,道路がよかったので,安気に乗馬の楽しみが味われたことでしょう。  岩波と田原の間にあった長野山には,田原,岩波,木和田,善夫へ通じる道がありました。また市場と相月の間にあった大野原には,鴨ヶ谷,手洗所,相月,野郷,川合,市場へ通じる道がありました。広い草原に細い道が入り組んでいたので,夜道をした人々が道に迷って,一夜中,野原の中をさ迷うことも度々ありました。そんなときには,狐に化かされたと,取沙汰されたものですが,実際長野山や大野原には古狐が沢山棲んでもおりました。  川に架けてあった橋は,丸太を二本くらい並べたものが多かったようですが,巾二,三メートルの小川には,丸太を四,五本ならべて,その上に木の枝を敷き,土砂でおおうた土橋もありました。杉平,小林,川手などの巴川には高橋といって本橋で一,五メートル巾くらいの大橋もありました。弓木や大和田の大川に架けてあったのは,一本か二本の丸太橋でしたから,牛や馬は,川の中を徒渉することになっておりました。上作手の方では,川尻の大橋は欄干つきの立派なものでしたが,他の橋は,土橋や丸大橋ばかりだったときいております。  さて作手の昔の道を,あちこち尋ねてまいりましたが,要するに,尾根伝いの道,尾根と洞を結んだ道,沢や川伝いの道の三つに区別されるかと思われます。そして,その規模も,南部北部では人馬の通行に差支えない程度を目途に造られておりましたが,中央平坦部は,早期開発されており,市場,長者平,川尻など,所謂城下町ともいうべき部落付近は,重要街道として,かなり整備されてもいたように思われます。この道路を保持することは,すべて村人の責任においてやっておりました。お役といって,道畔の雑草を刈ったり,道路の修理をする「道造り」の賦役が,一年に四,五回はありました。わが村の道は,自分らで守るものというのが,当時の村人の信念でもありました。幾千年の長い歳月,わが道を愛し,これを守り育ててきた先人の貴い汗の跡を偲びたいと思います。 (峯田通俊) ********  注)これまでの記事は〈タグ「続つくで百話」〉で  注)『つくで百話』の記事は〈タグ「つくで百話」〉で