集団「Emication」別館

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作手の昔の道(2)(続 つくで百話)

花0613。 雨の一日でした。  大雨警報の発令される降り方をした地域もあったようですが,そんな降り方にはなりませんでした。  先日のコラムに,こんな記述がありました
 近所の公園でもアジサイが咲き出した。花が似合うのは、しっとりした長雨の風情だが(略)  アジサイを眺めて、ふと気付いた。「お前たち、密ではないか」。咎めるのでなく、うらやましくなった。自然界には密着、密集がつくる美しさがある。われわれも「密」の大切さを忘れてはいないが、いまは非常時。
 アジサイ(紫陽花)には,梅雨が似合います。  明日も,雨かな…。  『続 つくで百話』(1972・昭和47年11月 発行)の「作手の昔の道」の項からです。 ********     作手の昔の道   雁峯山を越えた道  作手郷から,雁峯山の峠を越えて,山下の村々へ通ずる道は,五本以上もあったようです。先ず東からあげると荒原の吉ノロから牛倉へ降りる道があり,この峠を三つ石峠といいました。大田代から金栗峠をへて片山へ通ずる道があった。この道は,田代の五月沢から風乗峠を越してくる道と中腹で合流しておりました。塩瀬,島田,木和田などから新城へでるには,この道が一番多く利用されました。  次は,杉平から,御前石峠を越えて,徳定へ降りる道で,昔は足助街道と呼ばれ,最重要道路でした。雁峯の中腹辺に大きな馬頭観音がおまつりしてあり,その辺に石の道標が建てられていて,左 あすけみち,右 しらたき と刻んでありました。杉平から,赤羽根,相月,市場,長者平,川尻と通じる道と,杉平から上小林,手洗所、鴨ヶ谷,川尻と結ぶ道と二タ筋ありましたが,毎日,三,四十頭の駄賃つけ馬が通り,背負子をしょった人や,徒歩の通行人が大勢通って賑かなものでした。川尻の先は田原,中河内をへて黒坂から足助に結ばれておりました。  野郷や戸津呂,見代の人たちは,和田の御勢子峠から臼子辻をへて新城へ出ました。和田からは,今の国道三〇一号線に沿って常寒峠から臼子辻へ降りて,ここで御勢子峠から降りる道と合流して,臼子をへて新城へでたり,稲木を通って,野田へでて豊川方面に行ったりしました。  本宮山へ登るには,和田,戸津呂,野郷からの道がありましたが,新城方面からは,臼子,長山,一宮から,また南西方面からは千両,雨山,石原(くらがり渓谷)などからの道もありました。  作手郷から,西の方向へ通ずる道としては,田原坂から宮崎へ,巴山を越れて千万町へ,中河内から水別,黒坂へ,善夫から羽布へ,菅沼から宇連野への道などありました。作手郷は田原(水田が多かった)と呼ばれた程でしたから,そこへ通ずる坂というので田原坂といい,白鳥神社のお宮の先きであったから宮崎という名がつけられたということも成程とうなづかれます。  北の方は,上菅沼から笠井嶋,段戸と通じており,また守義から折立,田峯へ通ずる道も重要なものでした。  東の方では,まず木和田から島田へぬける道があります。木和田川に沿って降り島田のホソオヘでるのと,尾根伝いに上島田へでるのとあります。岩波からは,岩波川に沿ってホソオにでるのと,その途中で,彦坊山の尾根伝いに大和田の空沢をへて塩瀬へでる道がありました。また巴川の流れに沿って降る道は,塩瀬から,鳳来寺へ通ずる主要街道でした。次に,荒原から荒原川に沿って栃沢を降り,布里へでる道は,一色,布里,只持から新城へ行く通路になっておりました。荒原から尾根伝いに七久保をへて滝川村へでる道もありました。 (つづく) ********  注)これまでの記事は〈タグ「続つくで百話」〉で  注)『つくで百話』の記事は〈タグ「つくで百話」〉で