集団「Emication」別館

楽しく学び,楽しく活動する,笑顔の集団「Emication」。 ふるさとの自然,歴史,風俗などお伝えします。読書や豆知識の発信もしていきます。 活動する人,行動する人,その応援と支援をする集団「Emication」。

鈴木金七郎重正(3)(続 つくで百話)

セッコク0607。 天気のよい日でした。  午前中,地区花壇の作業がありました。久しぶりに地域の方々にお会いし,お互いの“生存確認”ができました。  花壇が綺麗になり,新しく花の苗が植えられました。  みなさん,ありがとうございました。  今日届いた機関紙に,いつもと違うお知らせがありました。
 この度の新型コロナウイルス感染症の影響により,取材等の制作実務に支障が生じております。取材先並びに関係者の皆様の安全を最優先に考え,『○○』2020秋号を休刊とさせていただきます。(略)
 ここにも影響がありました。取材が再開され,魅力的な記事を読めるのを待つことにします。  『続 つくで百話』(1972・昭和47年11月 発行)の「鈴木金七郎重正」の項からです。 ********     鈴木金七郎重正        田代 鈴木準一 (つづき)  長篠の戦後二十七年を経た慶長七年(一六〇二) (此の年,本願寺十一世顕如光佐の長子教如徳川家康から寺地寄進を受けて東本願寺を建てた。西本願寺は是より先の十一年前,天正十九年顕如光佐が豊臣秀吉の寺地寄進により建てたもの,教如の弟准如が跡を継いでいる。)奥平信昌の四男松平下総守忠明(新城に於て生る。母は徳川家康の長女亀姫)二十才の時父祖の旧領地を所望し,一万五千石(作手郷及び近江の釆地を併せ領した)の大名として,上総国小幡城(七千石)から作手亀山城主となって来た(忠明慶長十五年五万石を以て伊勢亀山に移るまで足掛九年間作手亀山に在城した)忠明,幼にして頴悟,長ずるに及んで剛勇,軍功を樹てること多く,且つ其の上に仁厚で,能く士を愛し,頗る沿道に通じて居た。父信昌と共に「奥平忠明」として愛知県偉人伝に載せられて居る。忠明,祖領たりし作手に封ぜられるや,広く旧臣を求め,禄を与えた。忠明,領内巡視の際田代に至り金七郎を訪い,嘗て密使として主命を果した大正の旧功を賞し,禄二百石を給した。後,故ありて忠明の本家,奥平家に仕官したとも言われ,一説には徳川家康の命で,水戸家の徳川頼房(家康の第十一子,徳川御三家の一つ水戸徳川家の祖)に付属せしめたとも言う。ところで,忠明に就いて少し追記しておきたいと思う。忠明は作手に来るや,広く旧臣を求めて之に禄を与え(前記,鈴本金七郎)特に意を祭祀に留め,先づ祖先歴代の霊を祭り次にまた故臣の功ある者を弔い,領民に臨むこと子の如く為に,士民悉く其の徳を仰いだ。忠明が至る所好評を博し善治の名あった所以である。忠明は慶長十五年(一六一〇)作手亀山城(一万五千石)から伊勢亀山城五万石(作手郷も旧の如く領して五万石の中に含まる)転じ,元和元年(一六一五) (大阪夏の陣の直后)大阪夏の陣の功により,大阪城十万石に封ぜられ,戦后の経営に鋭意専念し,暫くにして,荒廃した大阪を富盛の旧観に復興させた。元和五年(一六一九)十二万石を以て大和国郡山城に栄転,元和九年(一六二三)将軍秀志(四十六才)職を辞し,二男家光(二十才)三代将軍となるや,近江国彦根藩主井伊掃路頭直孝(三十四才)と共に忠明(四十一才)は三年間江戸に駐り,幕政に参与し輔弼の任を全うした。寛永十六年(一六三九)播磨国姫路城十八万石に転じ,西国探題を命ぜられた。正保元年(一六四四)卒去,享年六十二。将軍家光,深く哀悼し,三日間江戸市中に令して歌舞音曲を停止せしめ,老中松平伊豆守信綱(武蔵川越城主七万五千石)を上使として,其の邸に臨ませ,香奠白銀百枚(或は干両)を供した。生前に於ける忠明の威望と治績,以て見る可きである。  鈴木の姓を称する家,現在田代に六軒あり。六軒とも皆大田代に在る。何れも金七郎重正の子孫にして,金七郎の出生地,新城市川上(富永の内)の鈴木の一党と同じく,真宗東本願寺に属する新城市の浄泉寺の檀家(門徒)である。    詠鈴木金七郎重正子誠忠武功 (略) ********  注)これまでの記事は〈タグ「続つくで百話」〉で  注)『つくで百話』の記事は〈タグ「つくで百話」〉で