集団「Emication」別館

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鈴木金七郎重正(1)(続 つくで百話)

花0531。 朝から雨の一日でした。気温も低く,「暖房入れようか…」と思うような寒い一日でした。  間もなく梅雨かな…。  『続 つくで百話』(1972・昭和47年11月 発行)の「鈴木金七郎重正」の項からです。 ********     鈴木金七郎重正        田代 鈴木準一  天正三年五月一目(西勝一五七五年),武田勝頼(三十才)は甲斐・信濃・上野の精兵一万五千を以て長篠城を包囲した。此の時,長篠城を守備して居たのは,天正三年の二月二十八日,当時浜松城主であった徳川家康(三十四才)(元亀元年正月岡崎より浜松城に移る)から抜擢を受けて新に長篠城主となった奥平九八郎信昌(初めの名は,高祖父と同じく貞昌と祢した)であった。奥平信昌は,作手に生まれ,作手に育った父祖以来の生粋の作手人,(四代目作手亀山城従四位奥平美作守貞能の嫡子)知と勇を兼ね備えた,二十一才の若い武将であった。奥平家の重臣七族五老を始め,松平党を加えた僅か五百の寡兵を以て籠城し,五月二十一日(陽暦の七月九日)の設楽原決戦の日まで,二十余日の苦斗に堪え,長篠城の堅守を全うした。  此の長篠の戦に於て,大事な主命を帯び,日を異にして長篠城を脱出し,立派に使命を果した二人の武士があった。一人は人口に膾炎された鳥居強右衛門勝商(豊川市市田の産)であり,一人は鈴木金七郎重正(新城市,川上の産)である。鳥居勝商(三十六才)は,武田軍が長篠城を攻略しかねて,長囲の計に決した五月十四日の夜半,求援使として脱城し,五月十五日の払暁雁峯山額岩峠に登り,合図の狼煙を揚げ,馳せて,同日夕刻岡崎城に到り,奥平貞能を経て徳川家康に主命を伝え,城の危急なるを詳しく言上し,織田信長(四十二才)にも謁して,両公岡崎出発十六日との言を得,即夜引返した。五月十六日,再び雁峯山額岩峠に登って狼煙を揚げ,援軍到来を報じたが,更に城に入らんとして有海の篠原に到り,機会を覗って居る時,穴山梅雪武田信玄の姉の子)の部下,河原弥太郎に捕えられ,勝頼の本陣医王寺山に於て尋問を受けた後,長篠城の大手門に連行され,武田軍の期待に反して,援軍到来を大音声を以て叫んだ為め,其の日,有海篠原に於て磔殺され,天正の烈士として讃えられて来た。  一方,鈴木金七郎は生き存えた故にか,或は,時運の陰の朽木として顧みられなかったか,其の事績は誤り伝えられて来た。しかし,金七郎の行動は鳥居勝商とは全然別個であった。既に織田,徳川の連合軍三万八千が来援し,五月十八日,設楽原に布陣してからの事である。長篠城主の奥平信昌は,織田,徳川二公の来援を得たので,是に対し,答礼使を派遣しようと思い,五月十八日,将士を会し,城を脱して家康の本陣に至る者を募った。然しながら,鳥居勝商の最期を目撃して居るし,武田軍の警戒は一段と厳重になって居るので,唯一人として応ずる者がなかった。時に,鈴木金七郎重正「身不肖なれど,其の御役某へ仰せ付け下されたし」と申し出た。金七郎は銃をよくし,水泳に達して居た。籠城者氏名を見ると身分の高い方から書いてあるが城将援将始め七族五老の十五人,奥平一族の十四人,計二十九人を除いた其他の武士の中で金七郎は三十二番目の所に記されて居る。金七郎の後にまだ三人の武士恩田金兵衛,西野喜兵衛,松平宮内右衛門の氏名があるが,後は,以下雑兵としてあるだけで,氏名は記してない。 (つづく) ********  注)これまでの記事は〈タグ「続つくで百話」〉で  注)『つくで百話』の記事は〈タグ「つくで百話」〉で