和田城址と和田佐宗氏(2)(続 つくで百話)
天気の良い日でした。
雲のようすが,昨日までと変わっていました。夏の雲です。
明日は…。
今日,花卉農家の方から話をうかがいました。
2月までの販売状況,そして3月,4月…,売り上げは大きく落ち込んでいるそうです。
そして,注文していた資材の入荷がなく,“今の作業”ができず,秋の“開花”が見通せません。
資材は輸入品で,それが止まっていることは,今だけのことでなく,この先の経営に影響が出るのです。
こうした方々に支援が必要なのですが,それが“まだ”届いていません。
早く! 早く! 早く!
『続 つくで百話』(1972・昭和47年11月 発行)の「和田城址と和田佐宗氏」の項からです。
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和田城址と和田佐宗氏
和田 佐宗候計
(つづき)
和田城址のすぐ南に中山峠があり,その南方一帯が水田地帯で,これを過ぎると雁峯山の後勢子峠の見張所で,ここから新城地方の平野が眼下にみおろされます。また,城址から北東方を見渡しますと,見代から相月野郷へ通ずる鍋弦峠が望まれます,ここに砦がありまして,本城の亀山城と連絡がとれるようになっていたそうです。すぐ北の戸律呂城,東北方の大和田城,見代城,八丈坊砦,登ヶ城砦などと互いに烽火をあげて合図する連絡網が完成していたものとみえます。
北設の郷土史家沢田久夫先生は,この和田城を視察されて,天正時代の築城としては,地の利を得た立派なものであると激賞されました。
和田出雲守貞盛は武田方に属しておりましたが,その子貞寄は徳川勢として,天正三年長篠合戦のときは,奥平信昌と共に長篠城に籠って奮戦しております。武田勝頼の敗退と共に貞盛が悲運に追いやられたのは申すまでもありません。そして聞もなく和田城も廃城となりました。
私の家の裏山に佐宗家累代の墓地があります。この墓地に隣接して,苔むした古い石碑と五輪塔が建っております。石碑の右側に出雲明神,左側に宝暦十二年午大孟夏吉日建之と刻まれております。貞盛が和田城にいたのは天正三年(一五七五年),この碑が建てられたのは宝暦十二年(一七六三年)ですから,その間に一八六年の開きがあります。私の推測では,武田方の貞盛の墓を建てることは,徳川家に対する遠慮から差控えていたけれども,大分,年月も経たことでもあり,徳川吉宗将軍の時代で,平和を謳歌する時世となりましたので,近親者が,これを建てることにしたのではなかったかと思います。この墓は,私の家と佐宗?さん,佐宗春吉さんの三家の墓として,盆,正月には欠かさずお参りしていたものです。尚も,推理を逞しくするならば,奥平の一族として,肩身せまい思いをしていたところへ,臼子の佐宗大膳重之の子孫が和田に移ってきたので,佐宗の娘を嫁に迎えたのを,いいしおに,佐宗姓を名乗ることになったのではないでしょうか。
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【おまけ】
学校再開。
知人がFacebookで紹介していた「子どもたちへ衛生面についての指導をする際の合言葉」です。
子供達に気をつけて欲しい 「あいてますか」。