集団「Emication」別館

楽しく学び,楽しく活動する,笑顔の集団「Emication」。 ふるさとの自然,歴史,風俗などお伝えします。読書や豆知識の発信もしていきます。 活動する人,行動する人,その応援と支援をする集団「Emication」。

教育は…。作手の剣道(3)(続 つくで百話)

花0327。 雨の一日でした。  予報で「雨や雷雨で,雨脚が強まる。」とも伝えていましたが,当地では強く降ることはありませんでした。  「29日に関東山沿いで雪,東京などの平野部でも積雪のおそれが…。」との予報もあり,寒暖差も大きくなりそうです。  感染症予防だけでなく,普段の健康管理にも気をつけましょう。  新型コロナウイルス感染拡大への対応は,これまでの「業務継続計画BCP;Business continuity plan)」では想定していなかった事態になっていると思います。  正確に承知はしていませんが,BCPは,2009年の新型インフルエンザ対応で,教育行政・教育現場でも作成,見直しがされました。その後,幸いに当地で“運用する事態”は起こっていませんが,今回は…。  そうした話をするなかで,学校では,しばらくの間「“他人”を信じるな」と指導をしなければいけないと気づきました。もちろん直接的な話ではありませんが,予防のための“安全の意識”を育むことが,それにつながります。  感染予防には「手洗い・うがいの励行」が必須です。その場面は…。  学校生活には,想像以上に多くあります。  その一つ一つを“意識し行動する”のは子供(個人)です。学習活動のなかで「手洗いしていいですか?」と求められて,「どうぞ」と応えないわけにはいきません。  現状で「しなくても大丈夫です。」と,他人対して言える方はいないでしょう。  学校再開ガイドラインは,一つの目安として,行政や担当が準備し運用していきながら,見直し対応していけます。  しかし,「教育のナカミ」は,子供により異なる“他人”の範囲を,どのように把握し,全体と個別で対応していくのか,そのなかで,どのような教育を目指していくのか,その検討が必要だと思います。  非常時ですが,いや非常時だからこそ,教育に携わるみなさんに“終息後の社会を生きる子供”が成長していくのに必要な知恵資質を育むことを一番に考えていただきたいのです。  よろしくお願いします。  『続 つくで百話』(1972・昭和47年11月 発行)の「作手の剣道」の項からです。 ********     剣に生涯を捧げた峯田与忠一 生いたち  峯田与志一さは明治十九年九月二十七日杉平村の虎吉氏の長男として生まれました。当時の杉平村は,今の協和学区を範囲とした杉平外五ケ村組合役場の所在地でありまして,新城足助街道という里道が通っておりましたので,毎日三,四十頭の駄賃つけ馬が往来しておりました。この杉平村に裕福な家が三軒ばかりありましたが,その中の一軒が虎吉さんでありました。  与志一さは富岡高等小学校を卒業して,愛知県立安城農林学校に進学しました。その頃は,巡査の外は誰も着ていなかった洋服をきて,白線が二本はいった学帽をかぶっていた与志一さは,私たち少年の憧れの的でありました。この与志一さが杉平の家におられるようになった時,私たちは,安城を卒業してかえられたものと思っていましたが,それは病気のため中退されたのだときかされて,お気の毒に思いました。中退されたのは三年の二学期末でしたから特に惜しまれました。少年時代の彼は小柄で痩せており,後年のがっちりした体格とは全く対蹠的でありました。  しかし故郷へ帰られた与志一さは間もなく健康をとりもどして,新城の方から,きしという美しいお嫁さんをもらわれました。  その頃,見代に水力発電所ができることになりまして,各地から荒くれ男の土方が大勢はいりこんできましたので,物騒な話がつぎつぎに起こりました。与志一さの祖父与作さんは,本宅から三百メートルくらい離れたところで,杉本屋という店を経営しておられ,酒,煙草を始め日用雑貨も売っておりましたので,発電所の工事場で働いていた土方たちも,常日頃,杉本屋へ出入して店の様子をよく知っておりました。ある夜,数人の土方が強盗を企だてて店へ侵入して,まず,お手伝いの婦人を縛りあげて金品を物色し始めました。奥の間に寝ていた与作さんは,すきをみて裏口から抜け出して,急を本宅の与志一さに伝えました。与志一さは,すぐさま日本刀を携えて駆けつけましたが,その特には,強盗は退散した後でしたが,数人の乱暴ものが凶器をもって押し入っているというとこへ,とびこんで行った与志一さは偉い人だと思いました。安城農林に在学中少しは剣道を修業していたでしょうが,ここにも与志一さの大胆不敵の性格がうかがわれます。この剛胆さは後年の与志一さの剣道に端的に現われていたようです。  その中に与志一さの祖父も,両親もなくなられたので,与志一さは,妻子をつれて,夫人の実家のあった東郷村平井に転居されました。そして,そこに二階建ての宏大な住宅を建築されました。宏大といいましても大富豪の邸宅というようなものではなかったのですが,まあ中流の上という程度のものだったでしょう。この屋敷は,東新町八幡神社の東隣りで,敷地にかなりのゆとりがありましたので,後年ここに剣道々場を建設して,青少年の剣道指導にあたられることになったのであります。 ********  注)これまでの記事は〈タグ「続つくで百話」〉で  注)『つくで百話』の記事は〈タグ「つくで百話」〉で言葉;スカーレット】  いつもと変わらない一日は    特別な一日おまけ】   ◇新型コロナウイルスの3つの顔を知ろう!〜負のスパイラルを断ち切るために〜(pdf 日本赤十字社
日本赤十字社0327。