作手の剣道(2)(続 つくで百話)
天気の良い日でしたが,当地は予報ほどには暖かくなりませんでした。
今日のニュースや情報番組は,新型コロナウイルス感染拡大により東京オリンピック・パラリンピックの延期の話題に時間を割いていました。
また,自分の予防や対応に“危機感をもって”行動することが必要ですが,マスコミ(テレビ)は“過剰に煽っている”だけのような気がします。テレビだけの情弱な方々が,不必要な行動に走るのではないかと心配です。
昼休みなどに眺める画面からの判断ですが,そう思いました。
新型コロナウイルス感染の終息に時間のかかるのは仕方ないことかと思います。しかし,無用なパニックは,無くてよいことですが,起こさずに過ごす知恵を人間はもっているはずです。
一人一人が,適切に対応し,行動しましょう。
『続 つくで百話』(1972・昭和47年11月 発行)の「作手の剣道」の項からです。
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作手の剣道
(つづき)
作手村杉平出身の峯田与志一は大正四年,東三練武会を組織して,東三河の剣道振興に大きく貢献しております。この峯田与志一と,太平洋戦争後に作手剣道の推進役をつとめている阿部金重については,項を改めて述べることにしていますが,これらの剣士に比すべき俊英として,村内清岳出身の紅谷源吉を見逃すことはできません。
紅谷源吉は,巴小学校卒だけの学歴しかありませんが,徴兵検査で甲種合格となり,豊橋騎兵第ニ十六連隊に入隊してから剣道を始めました。右武学院の堀田徳治郎門下として剣道に専心して,素晴らしい進境を遂げております。愛知県警勤務時代には独学で専検に合格し,つづいて文検の体育科剣道に合格しております。戦時中は名古屋市の愛知県立中川工業学校教諭として勤務し,剣道練士六段に昇進しております。終戦後教職員追放令にひっかかったのを機会に,実業界に転向して,成功しておりますが,若し彼が引続いて剣道に精進していたならば,現在は範士になったであろうと思われる程に優れた天分の持主でありました。
尚,この外に保永出身の佐宗徳一郎と佐宗保海の二剣士があります。佐宗徳一郎は海軍志願で一等主計兵曹に昇任されましたが,退役後警察界にはいり豊橋警察署に勤務する傍ら私立豊橋商業学校の剣道教師をつとめ四段に昇段,堀田徳治郎の右武学院の幹部として活躍いたしました。
佐宗保海は愛知県立第一師範学校在学中剣道部主将として活躍しておりましたが,卒業後は南北設楽郡の小学校に奉職して多数の子弟を教育しております。鳳来寺村布里小学校勤務中に,彼が指導した児童の中から剣道五段が七名輩出しており,作手村,名倉村の若人の中にも彼の指導をうけた優秀な剣士が数多くでております。
(峯田 通俊)
*「千葉・倉光・嶋田家略系」 (略)
*修武館道場設立趣意書」 (略)
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