集団「Emication」別館

楽しく学び,楽しく活動する,笑顔の集団「Emication」。 ふるさとの自然,歴史,風俗などお伝えします。読書や豆知識の発信もしていきます。 活動する人,行動する人,その応援と支援をする集団「Emication」。

「武士と農民生活」(続 つくで百話)

花0109。 昨日の“荒れた天候”を吹く風に残した天候でしたが,綺麗な青空で好天の一日でした。  今日,「退任します。…で引退するという目標のもと…。目標を前倒しで達成できた為,私達は晴れて引退いたします。」とのお知らせがありました。  知らせに驚きながらも,目標達成の“あっぱれ”と“見事な引き際”に感動しました。  おめでとうございます。  これからもよろしくお願いします。  『続 つくで百話』(1972・昭和47年11月 発行)の「作手のお城物語(その二)」からです。 ********     作手のお城物語(設楽町 沢田久夫)       武士と農民生活  私たちは領主といい武士ときくと,映画テレビの連想から百姓とはかけ離れた立派な生活をしていたと思い勝ちです。しかし武士といい領主といっても山間の土豪,地待は,百姓よりはましとしても,そう大した生活をしていたわけではありません。戦国時代の田舎武士は,平時は何がしかの耕作をしている百姓武士で,その所有田は精々数反,多くて一,二町を越えません。こうした武士を「一領具足」とも,「一騎立」ともいいました。つまり何がしの領地をもち,一通りの武具をもった者という意味で,貞俊が頼った山崎高元などはこうした武士であろうと思います。高元の本領川手は江戸時代の村高六二石という小村で,とても城のもてる身上ではありません。  戦国時代たしかに武士が住んでいたと分る家は,全国でも稀ですがその稀有の一つに箱木千年家(神戸市郊外衝原)というのがあり,天正年間三木城主別所氏に仕えた土豪箱木家の住宅です。鎌倉時代の建築で,四間に六間の茅葺ですが,一間が六尺六寸ですから全坪数は約三〇坪あります。これだけの坪数なら現在は四間ありますが,箱木家は二間でしかも建物の六〇パーセントは土間です。奥の間をナソドといい六畳,大切な品物を格納する室であると共に,主人の寝室でもありました。小さい出入口があるだけで窓はなく真暗な室です。フトンなどない時代ですから,床には藁が敷詰めてあったでしょう。ナンドの前は一間乃至二間の板の間で,約十畳ある表の部分をヒロシキといい,中央にイロリが切られていました。客をもてなし家族団欒の居間です。軒は低く垂れ下って,人が屈まないと出入できない程ですから,昼でも屋内は薄暗く,土間は雨の日はここで作業し,夜は下人たちが藁を敷いて寝起きしました。これが応永年間一四戸の在家を支配し,産土八幡の頭屋役を勤め,被官下人を抱えていた歴とした武士の家でした。四六の家といえば,農家としては今日では普通規模以下ですが,当時としては部落最大の住家だったのです。  衣料としては木綿はまだなく,粗末な麻布や藤布を着し,履物も下駄は用いず,よくて草畦がけ,たいていは跣足でした。上級の武士が草鞄ばきとはちょっと意外ですが,「足利尊氏馬上武装の図」でも,ちゃんと草畦をはいていますから,歩卒の跣足は当然でした。  食事は朝夕の二食で,戦争に出る武士はふかした強飯か,これを乾かした糒を袋につめて携帯し,必要に応じ水に浸して食しました。これが水漬で,湯に浸したのが湯漬です。百姓はそんないい物はロに入らず,雑穀飯が主で,農繁期には雑炊,すいとん,けんずいなどという水分の多い食物を,数回に亘ってとりました。餅,団子,香煎などの粉食を加え,限られた食料をいかに食いのばすかが問題でした。こしきで蒸す代りに,鍋や釜を用いて炊いた水分の多い姫飯という,今日の飯にあたるものが普及し出すのもこのころからで,次第に二食が三食になります。一日量に変りはなく,それを三回に分けただけのことですが,そこに租税としての米の増徴と,米以外の雑穀に頼らなければ生きられなかった農民生活の哀れさがあります。  戦争が始まると農民はどうなるか。城下町や根古屋は放火され,農村では食料の徴発や掠奪が行なわれます。農民は家具家財の持てないものはそのままにして逃げ出し,山林などに隠れます。和田,見代,大和田等の山中にマヤという地があり,天正元年八月の戦に村人や馬を隠した所という伝説があります。勿論水田の稲は敵に刈取られ,成年男子は輸送夫として徴用され,遠方に連れて行かれることもあります。戦いの後に残るものは,敵味方の死体と武具の残骸と,敗者に対する刑罰だけでした。  こうみると百姓を虫けら同然に扱ったように見えますが,決して手ひどく扱ったわけではありません。余り酷い圧政をすると百姓が他領に逃げ出します。百姓の居ない村からは年貢もとれず,人の徴用もできず,ひいては領主の衰えです。そこで人返しが行われ,撫民政策がとられて,領内産業の殷賑をはかるというわけで,どうして育て,どこまで搾るかが領主の手腕でした。  戦国大名土豪も,毎日毎日が生死の境に立っていたといえます。勝利のために,生残るために,時としては骨肉の愛情も,熱湯を呑む思いで圧し殺す場合もありました。こうした深い苦しみの中に,領国を守り,更にそれを拡大して行かねばならなかった彼等が,人間以上の大きい力に頼らないでは居られなかったのは当然で,村内の寺院がことごとく室町時代−戦国期に創立されたことでも分ります。
寺院
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