集団「Emication」別館

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「領地と兵力」(続 つくで百話)

花0108。 暖かく,霧で煙った,暗い朝でした。  午前中,予報通りに激しい雨が降ったり風が吹いたりする“荒れた天候”でした。  昼には青空が見え回復するかと思いましたが,雨は止みましたが,午後も強い風が吹きました。そして,どよ〜んとした暖かさになりました。  今季は,“冬らしい天候”になっていません。凍結などがなく過ごしやすいのですが,降雪や積雪がないままでは,“春の水”が心配です。  田植えや稲の生長に十分な水があるでしょうか。  昨夏のように水不足,節水は起きないだろうか。  お天道様,極端な天候変化,大型台風はいりません。季節を愉しめる“冬らしい天候”をお願いします。  『続 つくで百話』(1972・昭和47年11月 発行)の「作手のお城物語(その二)」からです。 ********     作手のお城物語(設楽町 沢田久夫)       領地と兵力  以上奥平氏の系譜とその城砦について,一通り触れてきましたが,肝腎の領地となると一応解っているようで,さて具体的に数字をあげてとなると,さっぱり分らないのです。  当時土地を量る単位は貫高でした。近世になるとその土地の収穫高を示し,何石の地というのに対し,これはそこから納入される税額を示すものでした。一貫文は銅銭一,〇〇〇文に当り,その目方が同時に一貫匁として権衡の単位ともなっています。戦国のころは明の永楽銭が多量に輸入され,あたかもわが国の正貨のようになっていましたので,貫高制は一に永高制ともいいます。そこで問題は,貫高と反別及び石高との比較ですが,それが藩により,所により,また時代によって一定していません。  例えば仙台藩では平均八反三畝二〇歩を一貫文の地と定め,信州上田藩では一反九畝,同国伊那郡虎岩村では平均三反三畝が一貫文に相当しています。また近世初頭の石直しでは,仙台藩は十石,上田藩は二石四斗七升,虎岩村は四石一斗をもって,一貫文の地としました。しかしそれらは何れも遠地のことで,作手村はとなると史料がなくお手上げですが,それでは済まされないので,近接地方の僅かな例をあげて類推することにします。 領地と兵力 上表(※左表)の最多は小林の二五石余,最少は田口十ヶ村の九石五斗弱で,平均すると十五石九斗七升となります。  こうした差の生れる原因は,徴税率の高下にもよりますが,表高は石高によりながら,水帳は相変らず貫高帳であるため,村の反別が不明で,本年貢は一貫文につき何俵と,村柄に応じ等差をつけて割付けられたためです。従って抜地(陸地)が多く,農民が実際に土地を量るには蒔高を用い,何升播などといいました。  戦国大名は部下の知行地には軍役をかけました。知行をうける武士は,自分が騎馬で出陣するのはむろんのこと,その外に槍や指物,馬や武器を用意しますが,この軍役は所と人によって一定しません。奥平氏の軍役については「甲陽軍艦」品第十七に「武田法性院信玄公御代惣人数之事」をかかげそれに遠州・三州先方衆として 一、天野宮内左衛 百騎(これは遠州秋葉城主) 一、奥平美作守 百五十騎(三州作手城主) 一、菅沼新三郎 四十騎(三州陀峯城主) 一、長篠 三十騎(三州長篠城主)  駿河三河信濃・上野一騎合衆の中に 一、波あい備前 三騎 一、からや玄蕃 三騎 一、きところ遠寿 三騎(これは田峰菅沼の家老)  をかかげています。これが奥平家の兵力を知る唯一の資料です。  武蔵国比企郡で二十五貫文の地を知行する道祖土康兼は,自分のほかに長槍の槍持一人指物持一人,都合三人と,馬や武器を常備していました。この軍役は同じ大名でも地区により人によっても異うようですが,一つの例とはなります。一騎を三人として計算しても奥平氏は一五〇騎四五〇人,田峯菅沼は四〇騎一二〇人,長篠菅沼は三〇騎九〇人で,山家三方の主導権が作手にあったことが分ります。  「藩史」にも天正元年信昌が長篠城在番となったとき,兵力を二分し,信昌に士卒合せて二五二人を付し,貞能は百余人を残して徳川家に直参したことを記しています。貞能人数をかりに一五〇人とすれば四〇〇人となり右の計算とほぼ符合します。大名が戦争につれてゆく人数は,ふだんからきめてある人数よりはるかに多く,地下槍と称し,農民を臨時に召集して,出陣後の城の留守番を命じたりしました。武田勝頼遠江に出陣の際「今回は当家の興亡する基だ」といい,十五から六十までの男子を悉く召集し,「二十日たてば軍役できめた人数以外は帰国させる」といいましたが,二十日間というのはロ実に過ぎないようです。  軍役にきまっているのが陣夫で,輜重隊の軽卒です。陣夫は馬を連れてくるのが普通で「陣夫一匹」といい,半夫の場合は馬を連れていません。  知行地何程で一騎を出したか,これも作手の本貫が不明のためわかりませんが,浪合備前の場合は本知六十貫(天正石高五二石五斗)で三騎,二十貫に一騎の割合です。平谷玄蕃の貫高は不詳ですが,石高は七二石三斗ですから高二四石で一騎を出すことになります。伊奈郡の例をそのまま宛てることができないのは,伊那郡が一貫がほゞ一石というのに対し,設楽郡の平均一五石とは大幅に相違するからです。  以上の山家三方衆に対する人数の割当ては,天正元年八月以前のことで,天正三年長篠戦争に勝ち,田峯,長篠の故知を合せた後は,所領約一万石に及び,戦力が更に増大したことはいうまでもありません。 ******** 注)これまでの記事は〈タグ「続つくで百話」〉で 注)『つくで百話』の記事は〈タグ「つくで百話」〉で