集団「Emication」別館

楽しく学び,楽しく活動する,笑顔の集団「Emication」。 ふるさとの自然,歴史,風俗などお伝えします。読書や豆知識の発信もしていきます。 活動する人,行動する人,その応援と支援をする集団「Emication」。

先人の言葉。「奥平氏の防衛網」(続 つくで百話)

蝋梅0104。 良い天気が続いており,今日も綺麗な青空の一日でした。  今日(4日)は「仕事始め(御用始め)」で,年が明けて“初めて仕事をする日”です。しかし,企業・事業所・官公庁等で言われますので,今年は6日が,それにあたりそうです。  当地の子供達は7日から三学期が始まります。先生方は,6日に「新学期のこと」そして「一年間のまとめ」の見通しを持って,その用意します。  大村はま氏の言葉に「できないことは,教師の怠慢」があります。
 作文で書くタネがないとき,「さあ書いてごらん」と子どもに言っても,無理だと思います。  修学旅行に行って,先生が作文のネタを拾えないのでしたら,生徒はなお拾えないでしょう。私が拾っておいた題材を書き出し文の形で示しました。  例えば,比叡山に行ったとき,「雨に煙る比叡山」「すくっと立つ杉の大木の濃淡」…,これらをヒントにして思いついたことを書いてもよいでしょう。  「教える」ということは,このようにすることなのです。  また,読書指導で,詳しく読ませる必要があれば,その場で詳しく読む力をその子の身につけてしまわなければ,ただ「もっとよく読んでごらん」では,教師の仕事があまりにも安易すぎると思います。  学習の内容を示すだけで,実際には何もしないで,好きなようにというのでは,先生は楽すぎます。  やらせてしまわないとすれば,先生の方が怠慢,先生がいた甲斐がなかったことになります。
 “働き方改革”により,安易に「今まで通り」とはいかないことが増えていますが,充実した学習・活動を行うための準備は欠かせません。  大村氏に「それでいいの?」と言われない,教育活動を創ってください。  ご協力します。相談ください。  『続 つくで百話』(1972・昭和47年11月 発行)の「作手のお城物語(その二)」からです。 ********     作手のお城物語(設楽町 沢田久夫)        奥平氏の防衛網  戦国のころになると城の概念も一変し,消極的に一城に立龍って敵を防ぐというより,広い地域に亘って数城が連絡し,相協力してこれを防衛するようになります。そこで本城の外にいくつかの支城を領内の各地に配置し,或は境を守り,相互連絡の用に供しました。これがいわゆる山城網で,その支城は盆地峡谷の入口に当る天嶮の要害に設けられた小砦か,部下の土豪の居館等で小規模であり,その一つ一つはさして有力なものではありません。  つぎに苛烈な戦国の世に処し,戦に勝ちぬくためには,常に相手の情勢を把握していなければなりません。そのためには細作,乱破などというスパイを敵領に放ち,境界には関所を設けて人馬の出入を検し,得た情報は一刻も早く本城に伝えねばなりません。そのためには監視・情報伝達網を整備する必要があります。展望のよく利く山上に設けられた物見台,狼煙台,烽火台等を前記出城に組合せた防衛網です。すっぽり領国を覆ってしまい,蟻一匹の侵入も許さないというのが理想でした。  奥平氏の本拠亀山城は,領国支配に最も都合のよい作手平の中央にありますが,城郭が低地にあるため,視界はせいぜい二ー三キロに過ぎません。従って,その耳目として文珠山城があり,ここを中核として伝達通報の網を四方にひろげました。いくら何でも敵が目前に現れてからでは戦になりません。少くとも戦闘準備の完了するまでの時間を一刻(二時間)とみて,それ以前に通報をうけていなければなりません。試みに地図でさぐってみますと,北口小田城の場合は本城までの直線距離二四キロ,情報は飯盛山,木和田山城,獅子ヶ森を経由して本城に達し,二十分とはかからないでしょう。行軍は何の障害なく行われたとしても,時速四キロで六時間,実際には山道は迂回しており,途中の妨害を考慮すれば裕に一日行程です。最も短距離の大和田口にしても,直線一〇キロ,途中に鴨ヶ谷城があり,大湿原を横断せねばなりません。谷筋をゆけば見代城杉平城があり,赤羽根,宇津木,戸津呂,野郷,川合等村々に地侍の抵抗をうけること必至で,距離は短くとも半日は覚悟しなくてはなりますまい。  最盛期の奥平氏の領地は,作手を中心に隣郡諸郷に及び,半径二五キロの圏内にあったようです。遠州天龍川の西に三千貫の領知があり,証文から浜松荘内方,同本寺方,刑部郷,愛宕,崩口,早田,高橋,堀江郷内佐馬間村,和字村と地名は見えていますが,それらがどのようにして統治されていたか,その記録も踏査もしていないので,ここでは省くことにします。 城と砦0104。 いずれにしても広い領内を衛るために出城網が設定されたことは事実で,例へば名倉奥平氏の場合は,本城寺脇城を中心に東西二五キロ南北二〇キロの領内に中当,清水,浜,湯谷,大平,鍬塚,津具の九城が黒石,法花城,三本松,大峠の四砦を交へ,物見として岩伏,不寝見平,平山城峯,白鳥山を加へ水も洩らさぬ防禦網をしいていました。しかし奥平氏の本城作手亀山城から見れば,寺脇城は出城の一つでした。  亀山城を中心とした作手郷内の出城網は,文珠山城をはじめ川尻,木和田,同古城,小田,笠井島,菅沼,岩波,見代,大和田,杉平,和田,臼子の十三城。(古宮城陥落後は塞神城を加え十五城)より成り額田郡方面は亀穴城(滝山城)を中心に,雨山,夏山,田代,萩,日近外数砦で形成されていたようです。このように本城を中心とした第一次出城網と,それから分出した第二次の出城網を以て構成されており,その雄大な構想と細緻な計算には頭が下がります。かうした作手奥平も更にその上の今川,武田,徳川の諸氏から見れば出城に当るわけでした。 (七八頁連絡網図参照) ******** 注)これまでの記事は〈タグ「続つくで百話」〉で 注)『つくで百話』の記事は〈タグ「つくで百話」〉で