集団「Emication」別館

楽しく学び,楽しく活動する,笑顔の集団「Emication」。 ふるさとの自然,歴史,風俗などお伝えします。読書や豆知識の発信もしていきます。 活動する人,行動する人,その応援と支援をする集団「Emication」。

「奥平関係の城 小田城」(続 つくで百話)

花1223。 天気の良い一日でした。  今日は,小中学校で2学期終業式が行われました。  “平成31年”で始まり,1か月して“令和元年”となり8か月が過ぎました。  それぞれ“2学期の終わり”そして“新年(令和2年)”に,どのような思いと願いをもって終業式を終えたでしょうか。   ◇新城市立学校HP「最新の更新」   ◇12月23日(月)<校長室より>なぜ勉強するの?一宮市立浅井中学校)  子供達が希望をもって新年を迎えられますように!  『続 つくで百話』(1972・昭和47年11月 発行)の「作手のお城物語(その二)」からです。 ********     作手のお城物語(設楽町 沢田久夫)       奥平関係の城 小田城  奥平貞勝の二男常勝は一に貞国・貞春ともいい,父とともに武田方でした。その甲州帰属は意外に早く永禄八年といいますから,元亀二年の信玄三河侵入を去る七年前です。元亀二年には甲斐国に在り,書を兄貞能に送って甲州帰属をすすめていますが,間もなく三河に帰り,天正元年には父に従って再び甲斐に入りました。しかし其後またまた作手に帰りましたが,徳川家康はこれを許さず,貞能に殺戮を命じました。反服常なきを怒ったとも,スパイ容疑ともいいますが真相は分りません。貞能は老臣兵藤新左衛門を遺しその旨を伝えると,常勝は自刃したので新左衛門はその介錯をしたといいます。  常勝が守った小田城は,作手郷の北端小田村にあり,北は道具津川に臨む城山の頂上を削平し,直径一二〇メートルの円形をなし,北方断崖を除く三方に,幅三メートル,深さニメートルの空濠を二重にめぐらしています。海抜六八二メートル,比高は表側(南)で八〇メートル裏側には二五〇メートルにも及びます。城址から東方一〇〇メートルの山道添いに城主奥平源五左衛門常勝の墓があります。立派な石造笠付塔婆で,村人は今も彼の崇りを恐れています。  小田城は田峯菅沼領の境にあり,その奥の笠井島砦とともに作手領北辺の境を守る城でしたから,ここに武田氏諜者の疑いある者を置くことは,家康としても神経を尖らせたと思われます。  ここで考えねばならないことは,奥平氏が貞能・信昌父子の徳川方と,貞勝・常勝父子の武田方の二派に分れたことです。徳川の縁者となり大名となった奥平家の記録では,貞能は父に相談せず一存で徳川氏に通じたとしていますが,実際には父子なれ合いで一家が両方に属したのではないかということです。一家を両分し双方に属することは,南北朝以来の武家の通例でした。それはどちらが負けても家は存続するからです。家門の存続は武士社会に於ける至上命令で,貞能信昌父子がたやすく作手を脱出できたのも,貞勝が武田の陣営にあって,誠実を示していたことが与って力あったと思われます。或は脱出の夜は貞勝か常勝かが,古宮城の甘利清吉のもとに行っており,それで武田方は油断したのかも知れません。 ******** 注)これまでの記事は〈タグ「続つくで百話」〉で 注)『つくで百話』の記事は〈タグ「つくで百話」〉で