「松平忠明」(続 つくで百話)
天気の良い日でしたが,冷たい風が吹く一日でした。
写真は,亀山城址に飾られた今年のイルミネーションです。
算数の学習で,長さや面積,体積を「測る」ことを扱います。さまざまな“量”を適切に,工夫して測れるように学習します。
その話を学生としていて,「ところで,“量”って何?」という疑問(質問)が出てきました。
「それはね…。」と説明を聞くだけでは,疑問は解決しません。
一緒に考えました。
さて,“量”って何に,どう答えますか。
『続 つくで百話』(1972・昭和47年11月 発行)の「作手のお城物語(その二)」からです。
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作手のお城物語(設楽町 沢田久夫)その二
松平忠明
奥平信昌は天正四年新城城を築いてこれに移り,十二月徳川家康の長女亀姫と結婚しました。信昌には四男二女があり,長男家昌家をつぎ,二男家治は祖父家康の養子となり,上州長根七千石を領しましたが十四才で夭折。三男忠政は田峯菅沼の家を襲い,上州吉井二万石,後美濃加納十万石,三十五才で卒しました。
四男忠明は天正十一年新城で生まれ,十才のとき兄家治の後をうけて上州長根七千石,十七才で従五位下下総守に任ぜられました。関原役後慶長七年(一六〇二)九月父の旧領に江州七千石を併せて一万七千石の大名となり,作手亀山城に入りました。天正十八年から忠明入部までの十二年間は,吉田城主池田輝政の領地でその臣片桐半右衛正義が新城に居てこの地方七千石を支配したようです。
慶長十五年には伊勢国亀山城五万石に封ぜられ,本拠を伊勢に移しましたが,三河の領地は元和元年までそのままでした。元和元年大阪陣後ぱ恩賞を加えて十万石となり,大阪城代として戦後の復興をはかり,同五年大和郡山十二万石,寛永三年従四位下侍従,同十六年播摩国姫路十八万石と,とんとん拍子に出世しました。人物も英邁で,家康の孫という権威もあり,西国探題としてとして重きを成しましたが,寛永二十年病を得,翌正保元年(一六四四)三月二十五日,六十二才で歿しました。
作手藩の設置に伴い,再び日の目をみた亀山城は忠明在城七ヶ年,慶長十五年早くも廃城となりました。爾来星霜三百六十余年,城址は当時の面影をよくとどめており,これが保護は作手村文化財保護委員会の責任であります。
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