集団「Emication」別館

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「戦法の変化とお城(前半)」(続 つくで百話)

へぼ飯1203。 天気の良い日でしたが,当地の気温は10度を超えませんでした。  「寒〜〜い」  先日,今季初めて(初物?)「へぼ飯」を食しました。知人からの頂きもので,自然の恵みに感謝し味わいました。
○「へぼ」(地蜂の幼虫)は,クロスズメバチの幼虫です。 ○「へぼ」は,愛知県,岐阜県,長野県,群馬県などで食べられているようです。 ○愛知県では,奥三河地域の「道の駅」などで販売されており,味わうことができます。
 美味しゅうございました。  『続 つくで百話』(1972・昭和47年11月 発行)の「作手のお城物語」からです。  長文でしたので,今日と明日にわけて紹介します。 ********     作手のお城物語(設楽町 沢田久夫)           戦法の変化とお城(前半)  元弘建武の戦にはじまった南北朝の戦は,少数の,しかも武事には不馴れな公卿を中心とし,地方の中小豪族を以て編成した南朝軍が,軍事専門家の北朝軍(幕府軍)を向うに回して戦ったのですから,正面切って対戦すれば,勝敗の帰趨は戦わずして明らかでした。そこで南朝軍は,幕府軍の得意とする騎馬戦の行い難い天嶮に立て龍もり,築城を利用してこれに対抗し,相当の効果を収めました。楠正成の千早城は,その出色のもので,一握の将兵が弾丸黒子の地をまもり,二十万の大兵を翻弄したことから,築城の利点がひろく一般に認識され,平常の生活も城郭を中心に行なわれるようになって,築城術は急速に進歩しました。  特に応仁の乱以降の一三〇年間は,戦国時代といわれるほど,干戈に明け干戈に暮れた時代です。世は刈ごもの如く乱れに乱れ,都鄙を問わず武士が最大の実力者として登場した時代です。弱肉強食によって土豪の間に兼併が進み,前代の小規模に比し,質量ともに強大となりました。そこで軍事組織も,従来の家族的なものから隊伍的なものに変り,兵員兵器の関係から,騎兵より歩卒の方が多くなることは既にのべました。兵器では薙刀がすたれて槍がふえ,しかもその長さが次第に長くなりました。そして,この期も末になると鉄砲が伝来し,時勢の要求と相侯って 急速に普及し,遂には戦術に大革命をもたらしました。  戦争の仕方は,まず野戦では,数町を隔てて銃隊の交戦に始り,つづいてやや接近して弓隊の戦となり,更に接近して時期を見はからって長槍隊が突進し,その白兵戦となったところで騎馬隊が出て,決戦を試みるという順序でした。こうした兵器,戦法の変化は,武士の社会的経済的の向上と相侯って,築城に変化をもたらしました。築城法が進歩すれば,城の攻防も当然変化するわけです。以下それについて触れてみましょう。  まず攻撃面では「仕寄」と「水攻」が現れました。攻囲軍は,あの手この手を使って積極的に敵城を破壊する一方,対塁を設けたり,柵や鹿柴を置いて敵兵の脱出,内外の連絡を断ちます。こうすれば城内の兵器糧食がやがて不足し,士気も阻喪するというわけです。  「仕寄」には色々ありますが,その最も簡単なのが,柵,鹿柴により城兵の逆襲脱出を押えることです。やや大規模になると塹濠が加わり,鉄砲の時代には楯や竹束にかくれて塹濠伝いに城に近ずき,堀を埋め,または築山や櫓を堀際に築いて城内を射撃しました。更に近づくと金堀を使って地下道を穿ち,城の櫓や城門を破壊しました。水攻は湿地の城に限り使われた方法でした。  これに対する守城法も進歩しました。籠城は万止むを得ざる場合に限られ,出来る限り「国を以て城となす」の譬え通り,敵と国境に於て一戦を試み撃退します。しかし,この場合不利なれば後退して籠城となるのですが,常に積極的行動に移り得る態勢が必要です。籠城には人の和が大切で,城大きく兵少なるは不可,兵多くして食水乏しきは更に不可です。籠城の期間は味方の援兵の来るまで,若しくは味方の隊勢を立直すまでの,三・四日から長くても一ヶ月までです。食糧を節し,強固な団結を保つ必要から,でき得る限り守兵は精兵のみとし,できうべくんは老幼婦女子は城外安全の地に移すべきです。 家紋1204。 城の付近には陥穽を設け,堀切を穿ち,家屋を焼き,敵に拠点を与えないことが肝心です。敵の利用しそうな各種資材は,城内に移すべきは移し,然らざるものは,これを破壊焼却し,これを「地焼」といいました。城内には平常から充分に食糧を貯えておき,戦時には特に増強します。兵一人に対する給付は,一日に米一升味噌二合塩一合が当時の標準ですが,この外に水の用意を忘れてはなりません。防火器,撒水具の手当も重要で,もって敵の火箭,放火,味方の失火に対する対策訓練もおろそかにはなりません。  城の付近に柵を設け,河や堀の水中にも縄を張り,夜はかがり火をたき,時には投かがりを投じで城外を警戒偵察します。従って燃料は豊富に準備する必要があります。敵が接近して堀を埋めにかかれば射撃し,敵の投げこんだ埋草は投かがりや火箭で焼いてしまいます。進撃に便利な橋一つだけ残し他はことごとく撤去し,塀裏には臨時に土俵を置いたり,塀上に桟敷を設けることも行なわれました。  建物の屋根はたいてい萱葺だったので,火箭に備えて泥をあげ,敵が坑道を堀って近づけば,遂にこちらも坑道を堀って対抗しました。なお塁上の堀裏には大小の石塊,石灰や砂,人糞尿などを置いて,敵が接近した場合投げつけたり振掛けたりしました。味方が少数の場合は特に旗を多く立て,或は兵をあちこち異動して鼓を鳴らし,多勢を装うことも必要でした。また水不足の場合,城外から見える所で白米で馬を洗って見せたという話が方々にありますが,こんなことが実際にあったかは疑問です。  南北朝ころまでの戦争は概して単純で,時間的にも短くてすみましたが,戦国時代になると戦法も変り,兵員も多くなって,長期化が顕著となります。城の種類も増加し,城と城との関係も次第に組織的になって来ました。まずこれを政治的に見ると、本拠の城と支城とに分れます。 (後半へ続く) ******** 注)これまでの記事は〈タグ「続つくで百話」〉で 注)『つくで百話』の記事は〈タグ「つくで百話」〉で 【関連】    ◇公益財団法人日本城郭協会