集団「Emication」別館

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「城の縄張と軍事概観」(続 つくで百話)

実1126。 「曇り空から雨になり,気温が下がって…。」と思っていましたが,傘をさすことなく活動ができました。また,寒くはなく,むしろ暖かい日でした。  今年の冬も暖冬かな…。明日の天候は…。  『続 つくで百話』(1972・昭和47年11月 発行)の「作手のお城物語」からです。  公益財団法人日本城郭協会が「日本100名城」「日本100名城」を選定し,公表してから,当地の城址・古城を訪ねる方が増えています。その方々にも伝えたい記事です。 ********     作手のお城物語(設楽町 沢田久夫)           城の縄張と軍事概観  城郭を構えるにはまず「縄張」が大切です。縄張は経始とも書き,全体的な土地利用計画のことで,縄を張ってここは濠,ここは土塁,ここは本丸,ここは塀,門,とそれぞれ土地の配分計画に基き実施されます。城郭研究の権威大類伸博土は,郭の構成計画を分類して輪郭式,同変形,梯郭式,同変形,連郭式の五つとしましたが,連郭式が前者の組合せによって作られたものとすると,基本は輪郭式と梯郭式ということになります。  輪郭式というのは,大中小と大きさの違った鉢を積重ねた形に似ているところから,江戸時代は,これを入子鉢形といいました。また鉢の縁を一方にそろえて積み重ねると,その形が橋の欄干の擬宝珠を斜上から見た形になるので,これを輪郭式変形とし,階段状に郭が積上げられるのを梯郭式としました。しかし実際に城を踏査してみると,郭の組み合わせと形状は千差万別で,どの類型に属するか判定に苦しむ場合が少くありません。そこで私は以上の分類を参考にして,奥三河並びに隣接地方の城郭の型を,次の六つにしました。  円心円階段  入子鉢形  偏心円階段  擬宝珠形  直線双階段  本丸を中心に両側へ階段状をなすもの  直線片階段  片側のみ階段状  単  郭    郭が一つだけ  連  郭    二つ以上の郭が接続せずやや離れて存在する  比較的規則正しい標準的な型では,中央高所に本丸があり,二の丸三の丸と同心円的に配置されており,この外に派生的に付属している郭をその方角によって西の丸北の丸などと呼びます。詰の丸というのは一城中最も奥にある最後の拠点となる郭です。城郭の外部にあるものを内郭に対し外曲輪,総曲輪といい,ここには下級武士の住居や城下の一部が入っています。 亀山城址1126。 鎌倉時代の作手地方は,土豪武士の揺らん期でしたから,一団の人数は少なく,多くとも数十人を出なかったと考えられ,それらは本家を中心とした一族郎党の集りでした。それは後のように,顔も知らない多数の人間を方々から集めた軍団のように,隊伍的組織と規則を以て束縛したのとは違い,家族的で主従生死を共にするという情誼を以て結ばれた一団でした。そうした彼等の目的は,自己領域内の安寧秩序を保ち,他から侵害されぬよう自衛するためでした。  こうした自己本位の小集団をいくつか集め,一門の惣領とか,有力な豪族がその全体を指揮したのが当時の軍隊でした。従って全軍の連絡は当然悪く,甚しきは主将の命令すら徹底せず,利害相反したり,或は何か気に入らぬことがあると,自己の部下を率いて戦場から離脱し,帰国してしまうことすらありました。新田義貞千早城攻囲戦の途中で,病と称し部下をまとめて上野国へ帰ったのもその一例です。これも当時の一般社会に統一力が乏しく,自己本位だった時代相の反映でしょう。  室町時代の中頃までの武士は,ただ武芸専業の武者ではなく,平時は農耕にはげみ,一旦事ある時には城に詰めたり,或は戦場に馳せたりしました。一領具足という言葉がありますが,これは何がしの領地をもち,一通りの武具をもった者という意味で,こうした武士たちが,奥平氏菅沼氏などを統領とし,「山家三方衆」という武士団を形成したのです。彼等は田畑で耕作している時も,畦道には刀槍や鎧櫃を用意していました。即ち敵襲が迫ると,まず城中で鐘がつかれ,つぎに太鼓が鳴らされ,ついで法螺貝が吹かれることになっていました。それを聞くと彼等は直ちに鋤鍬を捨て,その足で武具を携えて入城し,点検を受けました。  一番に鳴る局は鐘で,それを合図に彼等は城中に兵糧を運び入れます。二番目に鳴るのは太鼓で,それを合図に甲冑に身を固めます。三番目に鳴るのが法螺貝で,武士も百姓も残らず城中に龍りました。これは千葉市の近郊土気城のやり方ですが,地域により多少の相違はあるとしても,大筋は全国共通のものでした。もちろん,これらの武士は,平時でも年に何日かは本城に出向いて,大番を勤めました。  もちろん戦国の頃になると,旗本と呼ばれる専門の武士が居なかったわけではありません。しかしその数は僅少で,とても兼業武士とは比べものになりません。戦闘カ──訓練や能力では,はるかに専業武士の方が優秀ですが,領主の勢力が小さく,武土団の人数が少いところでは,たとい戦力に影響があっても,城下の1ヶ所にまとめることは不可能でした。一方の旗頭であった田峯菅沼氏にしても,その苗字の地は,現在の大字程度のものに過ぎず,その領地も二十数ヶ村にすぎない小勢力でした。  次に兵器戦法についてみると,戦闘はまず約一町を隔てて矢戦から始まります。矢戦が一わたりすむと個人の騎馬戦となり,まず大刀を揮って戦い,更に近づいて組打ちとなる。相手を組伏せ,小刀を以て急所をさし敵を斃すという順序です。歩卒は薙刀を以て馬上の敵に当り,時に馬の脚を薙払ったり,熊手を鎧にひっかけてずり落しました。弓は一町ぐらい先まで届きましたが,実際に致命的な効力を発揮する距離はぐっと短く,せいぜい十五間と,兵学者はその矢がかりを踏んでいます。長柄の槍が現れてくるのは,南北朝の終わり頃からです。歩騎の比率も半々くらいであったのが,後になるほど歩兵の比率がぐんと増加し,従来の騎馬武者による個人戦法から、歩兵を中心とする団体戦法へと転換していきます。 ******** 注)これまでの記事は〈タグ「続つくで百話」〉で 注)『つくで百話』の記事は〈タグ「つくで百話」〉で 【関連】    ◇公益財団法人日本城郭協会