集団「Emication」別館

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「米福長者」(続 つくで百話)

寺1119。 天気の良い日になりましたが,日中は冬を感じる強い風が吹きました。  『続 つくで百話』(1972・昭和47年11月 発行)の「作手のお城物語」からです。 ********     作手のお城物語(設楽町 沢田久夫)       米福長者  「三河国二葉松」は,元文六年(1741)吉田の佐野知堯が新城の太田白雪など,国内の郷土史家を語らって編纂した史書ですが,その巻頭の文中に米福長者のことが出ています。関係のくだりを抄出すると
「白雪曰豊川矢作川ハ流レ大ニシテ其所タシカナリ男神川トハ今ノ大平川ヲ云成へシ其レ三ッノ水上ハ国ノ艮ノ方ニ当リ作手郷長者平村ノ水ヨリ巴ニ巡リテ流レ出ルト也往古此村ニ長者アリ其名ヲ米福トソ云ケラシ其ラ長者カ城トハ云伝シ」
とあり,この伝説が古くから有名であったことが分ります。  米福長者の屋敷址は,高里字木戸口にあり国道三〇一号線に沿い東側約一〇〇メートル四方を占めています。「こうやまき」にその推定図が載っており,曽ては四周に繞らした土塁も北部に一部残存しています。中心の母屋は峯田薫氏宅辺がそれと云われ,西の隅に金山神が祭ってあります。長者は酒屋を営み,その酒粕をすてた粕塚が南方の水田中にあり,今は八幡神社が祭られています。酒造に使用した井戸は今も漫々と清水を湛えており,むかしは大きな池もあったそうです。長者は多くの田畑をもち,大へんなお金持ちでしたが,心の優しい人で深く神仏を信仰し村人にも情深かったといいます。そんな長者がどうして没落しなければならなかったか,その事情は詳かでありませんが,武士に大金を貸して踏倒され,それが原因で破産したとも,盗賊に殺されたともいいます。また一説には応永三十四年(一四二七)二月,亀山城主奥平貞俊が,川合の東山隠場という処に,長者の子孫がかくれていたのを探し出し,討取って川合の坂峠に埋葬し,今でも塚があるといいます。米福長者の墓という石祠は,粕塚八幡宮の横にあり,長者の木像は高里の十二所神社に祀ってあります。  「作手村誌」をみますと,米福長者の外になお本宮長者,荒原長者があり,併せて作手三長者と称したといい,いずれも近郷に稀な富豪でした。本宮長者の屋敷は戸津呂の山上にありましたので,道が嶮しく遠いため,物資の運び上げに駄賃がかかり過ぎ,遂に破産したといいます。  荒原長者は,部落中央の他の畔に居敷を構えて酒造を営み,ここにも酒粕をすてたという粕塚があります。長者には一人の美しい娘があり,学問修業のため雁峯山下の真国のお寺へ通わせていましたが,或日突然行方不明になりました。長者は狂気のように悲しみ歎き,人を八方に飛ばして行方を探させましたが,ようとして消息は分りません。遂に気が変になった長者は,金の茶釜を頭に冠り,池に身を投げて自殺し,さしもの長者も滅びたといいます。  さてこの三つの長者伝説を比べてみると,それが何れも巨富を積み栄華を極めた富豪の,没落物語であることがわかります。更にも少し範囲を広めますと,本宮山下の稲木に稲木長者があり東郷には朝日長者が住み,豊川には川上長者がいました。有名な処では三河守大江定基と力寿姫牛若丸と浄瑠璃姫との悲恋物語で知られた宝飯長者・矢作長者があり,米福長者と合せて三河三長者といったそうです。三長者は親類同志で,米福長者は矢作長者の弟だともいいます。これらの長者はいづれも多くの田畑をもち,多勢の下人を使用して耕作させた大百姓であり,矢作長者や宝飯長者は,駅長を兼務していた地方の有力者でした。そして死期の近づいたのを察した長者が朝日さしタ日輝やく丘の木の下に,黄金千杯朱千杯どいう,巨万の財宝を埋めたという話がそれぞれに共通しています。作手ではこの話を真にうけて,粕塚を堀った人が実際にあったと聞きました。  長者のことが文献に現れるのは,「宇都保物語」の神奈備の種松が最初かと思いますが,この方は本の成立年代がはっきりしません。ついで「新猿楽記」の田中豊益ですが,これは康平年間(一〇六〇)に成立したことがわかりますので,作中の描写はその頃の大地主の生活を写したものでしょう。大江定基は十世紀初頭の人,牛若丸は十二世紀半頃の人ですから,長者の出現は大づかみに平安時代の中期以後ということになり,平安末期から鎌倉時代がその全盛期,室町時代になると地方豪族に蚕食されて衰亡するというのが,当らずといえども遠からずではないでしょうか。そうすると米福長者が奥平氏に攻め殺されたという話も,いちがいに荒唐無稽として一笑に付するわけにはいかなくなります。  長者という名こそありませんが,これとよく似た話が名倉にあります。名倉盆地の中央寺脇城主後藤弾正は,広大な佃(直営田)を百丁の馬鍬で耕し,一日で田植する大地主ですが,彼の富強を嫉む隣郷の城主によって,正和二年(一三一二)に不意を襲われて殺され,さしもの繁栄もあっけなく終止符をうちます。彼の場合は大地主であると同時に,城と部下の武士団を率いる「つわもの」でした。これに比べると,作手の長者達は大百姓──富豪ではあっても,まだ「つわもの」ではないようです。米福長者が河合の山中に隠れたというのも,たゞ逃げこんだのか,それとも戦い敗れた結果なのかはっきりしませんが,私の考えでは米福長者も後藤弾正のように,既に「つわもの」化していたような気がしてなりません。  平安時代の末から鎌倉時代へかけては,地方豪族の抬頭期でした。聖徳太子開山という須山善福寺の創立は,あまりにも時代が古すぎて,縁起をそのまま信じるわけにはいきませんが,同寺が古刹であり平安時代すでに存在した事実は疑う余地がありません。今日のような檀家制度のなかった当時としては,時の権力者や地方豪族の帰依なくしては,寺の創立も維持も不可能でしたから,当時そうした実力者──長者がすでに存在したと考えられます。  長者が居ればその財宝をねらう盗賊も挑梁したでしょう。平安時代には東山道東海道に群盗が出没して,国府が襲撃され,国司が殺されたこともありました。健児(こんでい/軍団)によって警備されていてもこの始末ですから,草深い田舎の不安はいうまでもありません。国の警察力頼むに足らずということになれば,長者─大地主は自らのカでそれを守らねばなりません。そこで下人や小作人の中から,腕っ節の強いのを選んで自衛団を組織し,武技を習わせました。これが後の武士の卵で,長者や大地主はその指揮官となり,ゆくゆく「つわもの」に成長していきます。  そうなると屋敷の周囲を土居で囲んだだけでは物足らず,土居の外側に更に濠が堀られ,その土は内部に掻上げられて,土居は益々高く堅固になります。門には桟敷が上げられ,展望と俯射のための矢倉が聳え,詰所(遠持),厩舎,兵器糧食庫が建並ぶと,これはもう屋敷ではなく居館城,掻上城というべきでしょう。長者平の長者屋敷に土居のあったことは分りますが,さて濠はどうだったでしょうか。  善福寺が栄えた平安時代と,米福長者が河合の山中で殺された室町初期とでは,その聞三・四百年もあります。作手三長者にしても同時に存在したと考えるより,時代を異にしたとする方が自然ですし,また各長者も一代限りというより,父子伝えて数代に亘ると考えた方がいいのではないでしょうか。はじめは大百姓であった米福長者が,中ごろ酒造を営んで更に富を積み,「つわもの」となった長者が他郷から押込んだ浪人武士──奥平氏に打倒されてゆくという筋書は,あまり小説的だと人はいうかも知れません。いま長者屋敷址に佇ってみるとまず金山神が目につきます。金山神は鍛治屋の祭神で,現に付近から鉱滓が出土して,邸内に鍛治屋が居たことを物語っています。田舎では,ついこの頃まで村に鍛冶屋は居まず,旅稼ぎの鍛治屋が時をきめて巡回し,農具の補修をしました。しかしこの鍛冶屋がそうした旅回りでないことは,金山神の奉齎でわかります。最初は自営田や小作田の経営に必要な鎌,鍬,斧,鉈などの農具をつくらせ,余分なものは他郷へも売却したのでしょう。しかし後に「つわもの」化すると,武器の刀剣鏃の製作に変ります。「三河国二葉松」の土産名物器財部に,設楽郡として作手蕨の次に鏃鍛治,銘日竹下五郎今世断絶と挙げています。田原鏃の名は古来有名で渥美郡の田原産とされていますが,作手の田原でないという証拠もありません。作手郷は和名抄の多原郷が中世に至って改称したものですから,改称以前の長者平を多原(田原)としても一向差支えありませんし。作者の竹下五郎にしても,作手から段嶺へかけて竹下姓が広く分布している現状から推して,長者屋敷の鍛冶屋が竹下五郎ではないかという想像も生れてきます。  長者が「つわもの」化しておれば,当然戦闘の際最後に立籠るべき要害を考えます。長者平に近い要害の地といえば西方に聳える獅子ヶ森山ですが,ここは少し遠すぎます。近くにということになれば,南方の本城山です。名のように山城があり,甲州武田の将馬場美濃守の縄張によって古宮城が築かれ,甘利晴吉が奥平氏の監視役として在城した際この城も取立てられたと伝えられています。しかし実地に踏査してみると,この城はそんな新らしい時代のものではなく,木和田の城ヶ峯などと同時代,恐らく南北朝時代にまでさかのぼる作手地方では最古の城です。米福長者は平常は長者平の居館にすみ,一朝有事の際は一族郎党を引具して,本城山に立籠ったと思われてなりません。とまれ米福長者が酒屋兼業の大地主として終ったか,それとも「つわもの」として本城山上に旗をひるがえしたかは,郷土人にとって興味ある問題です。
******** 注)これまでの記事は〈タグ「続つくで百話」〉で 注)『つくで百話』の記事は〈タグ「つくで百話」〉で 【「つくでの昔ばなし」掲載】   ◇米福長者(よねふくちょうじゃ)