出かけて…。「慶雲寺の十一面観音」(つくで百話)
日差しがあり暑さを感じる日でしたが,雨の降ることもある“変な天候”でした。
「何か,狭いなあ。」 久々に通る道路で感じたことです。
年齢による“視野の減少”かと心配ですが,それよりも“緑の生長と侵略”のよるものです。道路を覆うように枝が伸びているのと,路肩の草が伸びていました。
「緑が豊かで…。」と言えますが,“手が入っていない”ことによるものです。
「ここに仕事がある。」と思いますが,投入される資源(資金)と優先順位がないようです。
管理者,所有者,私有物,財産,○○権…
“難しいこと”への対応は“きょうけん”をもってするしかないと思うのですが,誰も“悪人”にはなりたくないものです。
今こそ○○の出番です。いかがでしょう。
今日,○○総会に出席するため名古屋に向かいました。
通勤の混雑は過ぎていましたが,“引きこもり”の身には刺激と驚きのある車内の人物模様でした。また,昼前後の栄・伏見・名駅での“ランチタイム”の動きは,「毎日これが続くんだ。」と感心するとともに,しばらく立ち止まって観察をしてしまいました。
総会は,報告,審議,質疑,採決と進みました。
進行(議長),答弁(回答)の様子に,思うことがいろいろありました。もう同じような場に立つことはありませんが,「○○にしたら,もっと伝わるのに…。」の学びになりました。
『つくで百話』(1972・昭和47年 発行)の「文化財と信心」から紹介です。
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慶雲寺の十一面観音
天保年間の或る日の夕方,みすぽらしい乞食坊主のような旅人が,大和田の小嶋家を訪れて一夜の宿をたのみました。この旅人は,大きな,お厨子の中に入れられた観音様のお像を背負っておりました。
夜のつれづれに,旅人が話したことによりますと,田峯村の谷高山に高勝寺と東区に観音堂というお寺があって,それぞれのお寺に,姉妹の観音様がおまつりしてあったが,観音堂の観音様が,どこかよそへ,お引越しになりたいと仰せになったから,自分がお供をして,観音様のお住居をもとめて,旅をしている旨をボソボソと語りました。
その翌朝,旅人が,観音様のお厨子を背負って出発しようとしましたが,急にお厨子が重くなって,どうしても立ちあがれません。旅人は,「観音様が,ここにお住居になられることを希望しておられるようだから,懇ろにおまつりして頂きたい。」とたのんで,どこかへ立ちさりました。小嶋家では,思いもよらぬいきがかりから,観音様をおまつりすることになりましたが,この話をきいて,村の人たちが続々とお詣りにやってきました。いろいろの願いごとをおたのみすると,ことごとくおききとどけ下さいました。
このころから,小嶋家のことを谷高という屋号でよぶことになりました。小嶋家では,こんな,あらたかな観音様を,自分の家におまつりしていることはもったいないからといって,今の大和田郵便局の隣りの田の一隅に,小さなお堂を建てて,ここに安置することになりました。そして,祭祀料にといって,一ヘクタールばかりの山を一枚観音様に寄付しました。
それから,長い年月のうちに,観音堂もだんだん腐朽してまいりましたので,村人たちの寄付で慶雲寺の境内に観音堂を建てておまつりすることになりました。高さ一メートルくらい,木製金箔塗りの立派な観音像がここにまつられており,今も村人の厚い信仰の対象となっております。
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他にも「観音様のお住居を求めて旅をする」のように神仏の像を連れていく話がありますが,これは生活の中に神仏が“生きていた”ことの表れだと思います。
現代では“この感覚”を持ち合わせていません。
宗教ということではなく,風習や習慣としての“根”をつくることの一つだと思います。
改めて周囲を見直してみてはいかがでしょう。
【「つくでの昔ばなし」掲載】
◇「田峰からこられた十一面観音」
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