集団「Emication」別館

楽しく学び,楽しく活動する,笑顔の集団「Emication」。 ふるさとの自然,歴史,風俗などお伝えします。読書や豆知識の発信もしていきます。 活動する人,行動する人,その応援と支援をする集団「Emication」。

チケットはずれ。「甘泉寺夜話(5 鳥居強右エ門の墓)」(つくで百話)

 よい天気の一日でした。風も穏やかで,心地よく過ごしました。  今日,2020東京オリンピックパラリンピック大会のチケット申込みの抽選結果が発表されました。  午前2時頃には,公式販売サイト内の「マイチケット」に当落が表示されたようです。  その確認はしませんでしたが,メールが届きました。
オリンピック0620。
 残念。「厳正なる抽選」により,「申込」の「チケットをご用意することができません」だそうです。  オリンピック・パラリンピックは,テレビ観戦で応援をするのが身の丈に合っているようです。  がんばれ!ニッポン! 【参考】   ◇東京2020公式チケット販売サイト  『つくで百話』(1972・昭和47年 発行)の「文化財と信心」から紹介です。  「甘泉寺夜話」の最終です。(全5話) ********     甘泉寺夜話 五 鳥居強右エ門の墓 兄「今日,鳥居強右エ門の墓を見て来た。」 母「一人でか。」 妹「おらも行った。」 兄「留さ,と三人で行っただ。」 祖母「強右エ門様は,豊川の町の向うの市田の生れで,おらが在所の,隣のお婆の生れた近所の家だったげな。」 兄「よく泳げたずらな。」 母「大水の時,夜泳いで川をくだった程だものな。」 妹「夜なんか,大水の時なんかに何んで泳いだん。」 兄「何んでたって,徳川家康に知らせにゃならなんだでさ。」 妹「伺を知らせにゃならなかったん。」 兄「面倒くせいな,大きくなったら先生が話をして呉れるかな。」 祖母「それはな,昔,長篠にお城があって,奥平様というお殿様が守ってお出でただ。そこえ,武田勝頼という大将が,一万五千人もの家来をつれて攻め‘ておいでた。そうして,此の城を明け渡して家来になれとおいいた。奥平様は,徳川家康という大将の家来だったので,勝頼様のおいいる通りには出来ないのでお断りになった。」 兄「それだで,それなら降参するまでは,此の城から出られんぞ,と,ぐるりを取りまいて出られんようにした。城の中ではだんだん食べ物が無くなるだろう,大将の家康の所へ行って,助けに来て呉れるように頼まにゃならんのだったんだって。」 祖母「雨は降り続くし,大水は出るし,回りは勝頼様の軍勢に囲まれているし,夜の間に,見付からないように抜け出すしかない。その時強右エ門様がお行きたのだな。  あそこは,お城の裏手が崖で,寒狭と三輪と,二つの川が出会うので大変な水だったげな。だけど抜け出すならそこしか無いので,崖の南側から泳いで川をくだったずらや。五月の十四日の皮だったそうな。」  お祖母様の話だと,強右エ門様はうまく抜け出いて,岡崎の家康様に知らせることが出来たそうな。その時家康様が,おいいるのに「二三日の中に,信長様の軍勢と一緒に行くから,お前も一緒に行け,一人で行くことは危い。」とおいいたそうな。それでも強右エ門様は,早く奥平の殿様に話して安心させて上げたいで,といって一人で帰って来て,捕まってしまった。夜になってから百姓の格好をしてかくれかくれ来だずらに惜しいことだった。  ひどい責め折かんで本当のことをいはされたちゅうんだが,強右エ門様程のお方が責め折かんぐらいで白状なんかなさろものかいな。  「明日の朝,お城へ向いて徳川も織田も当分は援けに行けんで戦うも降るも城主の判断によれといわれたといえ,そうすればお前を武田の家来にして重く取立ててやる。」と誘われたので,強右エ門様は,シメタと思ったに違いない。「この上は仰せの通りいたします。」といった。朝になると,繩でしばられて武田方の待に引立てられて川向うに城の見える丘の上に立たされて,「さあいえ,ゆうべ教えた通りいえ。といわれた。  お城では殿様始め家来衆,女の方々まで皆んな出て見ているし,武田方の軍勢も話が伝わって様子を見ている。  強右エ門様は後手にしばられたまま大声で,  「お城の殿にお伝え申す,徳川織田の両軍は,」といった。  次に何というかと皆んな息をのんでおると,「三日の間に必ず援けにゆく,固く城を守れとのお言葉でござる。」といった。  「コラいい直せ、いい直すんだ。命が借しくないか。」  強右エ門様はもう何んにもいわれなかった。  武田方は怒って,強右エ門様を柱に縛り城の方に向けて建てて,槍で突殺しなされた。  三日目本当に徳川様織田様の軍勢が来てな,えらい戦になった。そうして武田方が負けて長篠のお城は助かったのだよ。 兄「でも何故,甘泉寺に強右エ門の墓があるのかなあ。」 父「その頃の甘泉寺はとても威勢がよくて,東三河の寺は大方甘泉寺の配下だった位だ。長篠の戦より前,武田は先ず作手を攻めたのだ,作手で戦があった時,此の辺の寺は皆焼かれて,甘泉寺も無くなっていた筈だが,下’の方にも強右エ門程の人を埋める寺は焼かれて無かっただろうし,甘泉寺が名高い寺だったことと,奥平家がもともと作手の殿様だったしな。戦が終わった後で柱から降され,首だけ持って来てあそこえ埋めたのだそうだよ。  信長公は  「古今の勇士ぞ!と強右エ門を大変褒められたということだ。」    (峰田好次) ******** 注)これまでの記事は〈タグ「つくで百話」〉で