集団「Emication」別館

楽しく学び,楽しく活動する,笑顔の集団「Emication」。 ふるさとの自然,歴史,風俗などお伝えします。読書や豆知識の発信もしていきます。 活動する人,行動する人,その応援と支援をする集団「Emication」。

相談。「材木屋」(つくで百話)

鳥0530。 気持ちよい晴れの日で,青空が綺麗でした。  午前中,小学校を訪れ,校長先生に依頼と相談をしました。  「保護者の思いを知る」「子供のようすを知る」「地域の動きをつくる」…  そのために…。  校長先生の貴重なお話をうかがえました。ありがとうございました。  『つくで百話』(1972・昭和47年 発行)から「村の起原と人物」から紹介です。 ********     材木屋  杉や檜の立木を買って丸太にして,製材する人を元締めといっておりました。元締は,新城や鳳来寺にはありましたが,大和田にはありませんでした。元締は,店の方にいることが多く滅多に山へでかけることもなかったので,その代人というものが,山々を歩るいて山持ちと交渉して立木を買っておりました。立木売買が成立しますと,庄屋という役目の人夫頭が杣を使って伐採にとりかかりました。昔は,木の皮をひいてから伐採することが多かったようです。太い木は,四角に削って所謂角材に仕上げました。丸太ができると一本毎に元締めの符号を刻みこみました。これを切判といいました。昔は,丸太を川流しすることが多かったから,たとい洪水で押し流されて,幾人かの元締の丸太が入り交って土場についても,夫々のきり判で撰り分けることができるようになっていました。  杣職人は地元にもいましたが,庄屋の仕事をする人は,鳳来寺や長篠方面の人が多かったようです。庄屋は,その部下として日傭を五,六人から拾数人を掌握しており,一かどの見識と技倆を身につけておりました。日傭には血気盛んな若い衆が多く,元締の名の入った法被をきて,股引,足袋,草鞋ばきの軽装で,六尺余りの長柄の鳶を唯一の道具として仕事をしましたが腰には,小さい鉈をつけており,簑と笠も持っておりました。この日傭の粋な姿は子供たちの憧れでもありました。  山出しの時には,小屋掛けをして,山の中で生活することもありますが,到るところの部落に日傭宿という家がありましたから,庄屋が交渉して,この日傭宿に泊って仕事をすることが多かったようです。この庄屋の下にはかしきという小僧がおりました。これは小学校を出たての少年で日傭見習いともいうべきものでありました。このかしきの仕事は中々,きついものでした。日傭たちの食事当番を一切引きうけてやりますし,皆が仕事にでてから,一同の弁当を作って作業場まで運ぶことも,その役目の一つでした。小さいからだで拾数人の弁当や茶の道具まで運搬するのですから相当の重労働でもありました。自分の任務が片付いて,手すきになると,修羅出しや川狩りの手伝いもしなければならないのですから中々忙しかったようです。  川狩りのときなど一本の丸太に乗って,急流を下る日傭の姿は勇ましい,スマートなものでしたが,寒い日に,川の中へ投出されて,ズプ濡れになるような苦労もつきまとっておりました。  山出しをした丸太は,川岸の適当の所へ積みあげておきました。そして大雨が降って,川が増水する時を見計らって川狩りを始めます。ちょうどよい程度の出水だといいのですが,集中豪雨で,自然に,川岸の丸太が流れることもしばしばありました。それが下方の川岸の高い所へ引かかったり,水田や畑の中に流れ込むもの,豊橋の土場を越えて前芝や渥美の海岸まで一挙に流れ着くものもありますので,夫等を探しもとめて,とび回る日傭の仕事も大変でした。  近年は,道路が発達して,トラックなどによる陸送に変わりましたので,昔なつかしい粋き姿の日傭衆も完全に姿を消してしまいました。 ********  今,日本が抱える“社会問題”について,林業が“産業”として成り立つような社会になることで,解決(解消)への道が開ける気がしています。  一地域,一行政で出来ることではないかもしれませんが,その仕組みが肝心です。  現代の日傭衆が,社会を動かし,そこから産業が生まれます。  そうは思いませんか。 注)これまでの記事は〈タグ「つくで百話」〉で