集団「Emication」別館

楽しく学び,楽しく活動する,笑顔の集団「Emication」。 ふるさとの自然,歴史,風俗などお伝えします。読書や豆知識の発信もしていきます。 活動する人,行動する人,その応援と支援をする集団「Emication」。

小満。「鈴木金七郎重正」(つくで百話)

花0521。 今日は,二十四節気の一つ『小満』です。万物が次第に成長して,一定の大きさに達して来るころです。  昨夜からのは明け方に激しくなり,景色が霞んでいました。雨は昼過ぎまで降り,当地では200mmを超えたようです。  今朝,余裕をもって家を出たはずが,予定通りにいきませんでした。途中でいつもはない渋滞があり,普段より1時間多くかかりました。停止していたわけではありませんが,「渋滞通過に1時間かかった」ということになります。次回は,これほどの渋滞はないと思いますが…。雨の日が心配です。  みなさん,今日の大雨による被害や影響はありませんでしたか。  『つくで百話』(1972・昭和47年 発行)から「村の起原と人物」から紹介です。 ********     鈴木金七郎重正  私の住んでいる田代には,鈴木金七郎重正の石碑が残っています。鈴木金七郎は新城市川上の生れで,鉄砲をよくし,水泳に巧みな武士で長篠城の奥平信昌に仕えていました。  天正三年五月,長篠城武田勝頼一万五千の大軍に包囲されて,落城寸前になりましたときに,城主信昌の命をうけて,鳥居強右衛門勝商と共に城を脱出して,岡崎城へ行って徳川家康に面会して援軍をたのみました。徳川家康は,快く,その要請に応じ,徳川勢八千,織田勢三万の大軍を率いて,奥平信昌を応援することになりました。  すぐ引返して,長篠城に報告しようとした鳥居強右衛門は,武田軍に捕われましたが鈴木金七郎は,一応使命を果したのだからといって,川上の実家へかえり,徳川の援軍に加って,五月二十一日の設楽ヶ原決戦に参加して,手柄をたてました。そして,徳川家康の紹介で,極楽寺山に本陣をしいていた織田信長にも拝謁して,大いに面目を施しましたが,戦後は,城へ帰らず一旦川上の家へもどりましたが,その後今の田代に入り土地を開墾して農業を営み,田代の開発につとめたそうです。 (今泉美保子) ********  長篠の戦い設楽原の戦い)における鳥居強右衛門勝商の行動と功労は,広く知られています。  共に脱出した鈴木金七郎重正については,当地では知っている方も多いですが,強右衛門には至りません。  子供達に,地域の歴史を伝えていきたいと思います。 【関連】   ◇鈴木金七郎の業績を見直す会   ◇「鈴木金七郎重正」《作手村のむかし 29》(集団「Emication」) 注)これまでの記事は〈タグ「つくで百話」〉で情報】   ◇宇連ダム − リアルタイムダム諸量一覧表国土交通省)   ◇宇連ダム − ダム流況表水資源機構中部支社) 【参考】 「川の防災情報」(国土交通省)より
雨量0521。