「母の通っていた頃の小学校」《父母が子どもの頃 17》
寒い日でした。
日中の気温は上がらず,むしろ下がった気のする気温で,12時台に「2度」でした。降っていた雨が霙,雪となる“冬の天候”でした。
咲き始めた桜が驚かないような天候であってほしいものです。
明日の天候は…。
文集「こうやまき」(1970年・刊)から,「父母が子どもの頃」の一話です。
文集に掲載されている作品も,残り4話となりました。「あとがき」まで紹介がすんだら,一度整理する予定です。今はタグ『文集「こうやまき」』から辿っていけます。
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『母の通っていた頃の小学校』 (文・協和小6年 女子)
母の小字校の頃のことをたずねたら,次のような話をしてくれた。
母が,高松小学校の一年生に入学したのは,昭和十七年であった。当時の小学校は,国民学校と呼はれ,今日かは,国民科,理数科,体錬科,芸能科があり,現在の私たちとちがう所は,?一年生から習字をやったこと ?武道があったこと ?学級会がなかったことなどである。
また,その頃は太平洋戦争のさい中だったので,兵隊となって多くの村人が出征した。小学校の子どもたちは,そのつど,日の丸の旗をふって,がんぼう峠まで送って行ったそうです。
学校では,図画の時間などは,戦地へ送る絵を,作文の時間には「戦地の兵隊さん、ごくろうさんです。お国のためにがんばって下さい。」などと書いて送ったそうです。でも,その時分は,紙も不足していたので,掛け図などを切って,うら側に絵や文字を書いたほどでした。みんな,物を大切にし「ほしがりません,勝つまでは」と言い合って,一本の鉛筆でも最後まで使ったそうです。
学用品だけでなく,衣類も,食べ物もなくなってきていた。だから,運動場も三分の二位は,さつまいも畑となっていた。少しでも多くの食糧をえようと,小学生も,勤労奉仕をし,近所の家の手伝いなどをして,勉強と作業の学校生活を送ったそうです。
三年生の頃,名古屋や豊橋が空しゅうでおそわれ出すと,私たちの部落へもそかいをして来る人が多くなった。当時,高松小学校は七〇人位だったが,そかいの子が,母の組にも五人位入って来て,十五人になり,朝鮮の子も三人いたそうです。外人の子といっしょに勉強できるなんて,すてきだなと思います。
四年生の時,戦争が終わり,日本が負けたのです。それ以後しばらく,戦争のことが書いてある所をすみで消した黒い教科書を使って勉強したそうです。
以上が,母が話してくれた,母の小学校の頃のようすです。母は今まで,こんな話はしなかった。戦争中,小学校に通い,食べ物に苦労し,鉛筆や着物で,親などを苦しめることなく,じっとしんぼうしてきた母。それは,私の母だけでなく,この頃の人たちみんなに言えることだけど,こうした人たちのしんばうが,今の私たちのしあわせになっているのだと思う。だから,「当時の人たちは,えらかったなあ」とか「りっぱだ」ではすまされないものを,私は感じる。
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この子に語った母親が,今も同じように語るのは,多分無理なことだと思います。
この子が感じた“昔の人の「しんぼう(辛抱)」”は,同じ話を聞いても“今の子”には気づけないのではないかと思えます。
“今の子”が気づき行動できるように,親が,家庭が,学校が,それぞれ語り伝えていけるとよいなあと思います。
いかがでしょう。