集団「Emication」別館

楽しく学び,楽しく活動する,笑顔の集団「Emication」。 ふるさとの自然,歴史,風俗などお伝えします。読書や豆知識の発信もしていきます。 活動する人,行動する人,その応援と支援をする集団「Emication」。

「村の道」《作手村のむかし 38》

セイコ−マート0908, 今日は,二十四節気の一つ「白露」で,大気が冷えてきて,露ができ始めるころといわれます。  朝,曇っていた空から急に雨が降ってきました。 「予報通りの雨か…。」と思う間もなく,大雨警報の発令が伝えられました。  「えっ,これで。新城は広いからな…。」と“納得”しましたが,晴れ間も見え,傘をささずに過ごせる警報の解除までの“長い時間”でした。  不安定で急変する天候は,“警戒が必要”ですが,「大丈夫だった。」の繰り返しは,気持ちに緩みが生まれるように感じます。  「もしもの時」が来ないことを願いますが,物の備えとともに,心の準備をして,即座に対応ができるようにしておきたいと思います。  文集「こうやまき」から,「作手村のむかし」の一話です。この章の最終話です。 ********    『村の道』 (文・作手南中2年 女子)  私たちが今通っている道は,昔は川が流れていたところだったということです。ということは,水の浸食によって,川底がだんだん低くなったため,昔,川が流れていたところが道として使われるようになったのだと思います。また,ずっと昔の道は,現在の道の反対側にありました。つまり,日かげ側で,高いところにあったのです。その後,道は現在のところにでき,道幅もだいぶ広くなりました。それでもそのころは荷車がやっと通れるくらいの道でした。  今では広い道になって,自動車で,新城や高里に行くことができます。昔は,歩いて雁峯山の峠をこしたり,今もある細い道を歩いて高里に行ったりしたそうです。私たちには想像もできないことです。重い荷物を背負ってのことだったのですから,さぞ苦しかったことと思います。道ばたの草むらからへびなどはもちろん,たぬきや,きつねがとびだすことも,めずらしいことではなかったといいます。かさをさせば両側においしげる杉の木のため,かさをかたむけなくては通れないほどせまい道幅だったそうですから,今考えると,想像もつかないほど不便な道でした。でも当時はそれが作手村の主要道路だったのです。  今では何の役にもたたず,草が生い茂って,忘れられていますが,私たちは,がけくずれで今の道が通れなくなったとき,一度昔の道を通って学校に行ったことがありました。その時はじめて話にきいていた昔の道を知ることができ,「なるほどなあ」と,思いました。道とも思えない不便な道でしたがけっこう役にはたちました。忘れ去られた昔の道でも,やはり役立っこともあるのです。  道こそ私たちの生活にとって一番大切なものだと思います。今の道もけっして十分な道ではありませんが,昔の人たちのことを考えると大切にしなくては,と思います。そして,もっともっと立派な道にしなくてはと…。 ********  現在,「昔は川だった」ということは言い伝えられていないかと思います。  災害が起こった時,それが「火山灰が積もったところで…。」「元々,沼地だったので…。」と現状から想像できない“昔”が誘因だったりします。  昔話をしてばかりはいられませんが,現代に合った方法で「昔のことを語り継ぐ」ことが,文化の継承とともに,防災の一助となるように思います。  さて,この「昔,川が流れていた」のは,どこでしょう。  次回から「村の行事」の章になります。