集団「Emication」別館

楽しく学び,楽しく活動する,笑顔の集団「Emication」。 ふるさとの自然,歴史,風俗などお伝えします。読書や豆知識の発信もしていきます。 活動する人,行動する人,その応援と支援をする集団「Emication」。

「鈴木金七郎重正」《作手村のむかし 29》

鎮魂0812。 不安定な天候の一日でした。  昨夜に降った雨が地面を濡らしていましたが,日が昇ると乾いてしまいました。天気アプリが「猛烈な雨…」と警戒を伝えますが,市内でも局所的で,当地は晴れたままでした。  それでも,雷鳴が聞こえたり,空が暗くなったりして,お天道様が「用心しなさいよ。」と言っているようでした。  午後,当地にも雨が降りました。気温が一気に5度ほど下がりました。田畑や野菜,草花には,恵みの雨となったようで,葉が“元気”になったような気がします。  今夜の催しが「雷雨により中止…。」との知らせがありました。楽しみにしていた方も多かったでしょうし,企画した方々は残念なことと思います。  これからの天気は…。  文集「こうやまき」から,「作手村のむかし」の一話です。 ********    『鈴木金七郎重正』 (文・作手南中2年 女子) 鈴木0812。  私の住んでいるところでは,鈴木金七郎重正の石碑が今でも残っています。聞くところによると,鈴木の先祖は鈴木金七郎重正という武士で鉄砲をよくし水泳に巧みな人だったそうです。新城市の川上の生まれで,長篠城主奥平信昌に仕えていました。奥平信昌は,作手の生んた武将だったそうです。今から三九二年前,天正三年五月,五百の兵で守っていた長篠城は,武田勝頼の軍勢一万五千に囲まれました。信昌の命を受けた鳥居勝商は岡崎まで助けをもとめに行きました。島居の知らせで長篠城の危険を知った徳川家康は八千,織田信長は三万の兵を率いて急いで援軍に来ました。信長は,上平井のごくらくじ山に,家康は竹広のだんじよう山に本陣をおきました。信長の命を受けた金七郎は島居と同じように城を出て,家康の本陣に行き,信昌からのお礼の言葉を伝えました。家康は丹羽六大夫をつけて金七郎重正をごくらくじ山にやり信長にあわせました。金七郎重正は家康からと同じように,信長からもおほめの言葉をいたたきました。使命を果たした金七郎は,すぐ城に帰ろうとしたが家康から 「戦がすんでから帰れ。」 と,言葉をつくしたので,そのまま徳川の陣にとどまりました。五月二十一日の決戦で,織田,徳川方が勝ち武田方は負けて逃げ去りました。戦は終ったが,金七郎は城には帰らずいったん川上の家へもどったが,今の田代に入り土地を開懇し農業を営なみ今の田代を作ったそうです。  このような話が今でも伝えられています。そして今でも鈴木金七郎重正の石碑がのこされ当時の面影をしのぶことができます。 ********  「長篠・設楽が原の戦い」では,織田&徳川連合軍に援軍要請をした鳥居強右衛門(勝商)が有名ですが,それに同行した鈴木金七郎(重正)という人物がいました。彼もまた,歴史を作った人物です。 【関連】   ◇「鈴木金七郎物語」App Storeプレビュー)   ◇鈴木金七郎の応援歌YouTube) 【おまけ】  今日(8月12日)は「君が代記念日」だそうです。  1893年8月12日に文部省が訓令「小学校儀式唱歌用歌詞並楽譜」を布告し,小学校の祝日・大祭日の唱歌に歌う曲8曲を定め,この中に君が代が含まれていたことから制定されました。  なお,1999年8月13日に制定された「国旗国歌法」によって,「君が代」が正式に国歌となりました。  訓令に示された唱歌
第一 君が代古今和歌集 読人不知 作詞,奥 好義 作曲) 第二 勅語奉答(勝 安芳 作詞,小山作之助 作曲) 第三 一月一日千家尊福 作詞,上 真行 作曲) 第四 元始祭鈴木重嶺 作詞,芝 葛鎮 作曲) 第五 紀元節(高崎正風 作詞,伊沢修二 作曲) 第六 神嘗祭(木村正辞 作詞,辻 高節 作曲) 第七 天長節(黒川真頼 作詞,奥 好義 作曲) 第八 新嘗祭(小中村清矩 作詞,辻 高節 作曲)
の8曲です。  これらの唱歌をご存知ですか。  「君が代」と「一月一日」は分かりますが,他の曲は聞いても分からないかも…。