『遺体』(石井光太・著)
朝,まだ雨雲でしたが,各地で被害が出ているような雨は降りませんでした。
昼過ぎになって青空が見られるようになり晴れてきました。
これから暖かくなるようで,“春の陽気”が続くようです。
桜の開花も早まるかも…。
アメリカの歴史家ジョン・ダワー氏が,東日本大震災後に言った言葉がります。
【関連】
◇石井光太 公式ホームページ
◇「遺体 明日への十日間」特設サイト(現;遺体と葬儀屋について考える)
◇「三陸は復興しなくてはいけない。そして新城は…」(『福禄寿』(仕事日記から))
大きな災害や事故が起きると,すべて新しく創造的な方法で考え直すことのできるスペースがうまれる。いま日本はまさにその時だが,もたもたしていると,そのスペースはまた閉じてしまう。日本は,どうだったのでしょう。 生まれたスペースを活かして“創造的な取り組み”ができていたでしょうか。 そして「今」は…。 震災の後,いろいろな記録や映像があり,書籍となり,映画になりました。 その一つで衝撃を受けたのが『遺体: 震災、津波の果てに(新潮社・刊)です。そして,映画『遺体 明日への十日間』となりました。 以下,2013年の記事です。 震災直後からの取材記録,ルポルタージュが,次々に,淡々と描かれており,読みやすい文章です。 しかし,映画の予告編だけでも体が震えたように,文章から浮かんでくる光景と思いが,重く迫ってきます。 民生委員,医師会会長,歯科医師会会長,市役所職員,市長,消防団員,僧侶,自衛隊員,葬儀社社員などの地元を良く知る人々の生の声が綴られています。
頭が混乱してしまうそうなのだ。だからこそ,小泉は遺族が泣き叫ぼうとも絶対に顔を上げようとはせず,「仕事に集中しろ」と自分に言い聞かせて手を動かした。 だが,そんな小泉も知り合いの遺体を見つけたときだけは体が凍りついた。市職員は,
松岡たちは目配せをした。状況がわからないため,断るにしても理由を見つけることができない。やむを得ず答えた。 「わかりました。指示ならば従います」と安置所に向かいました。 歯科助手は,
だが,母校の体育館に足を踏み入れた途端につきつけられた現実は,生ぬるい慈善心を粉々に打ち砕くぐらいむごたらしいものだった。と,折れそうな心を支えながら検歯の記録を続けました。 「3.11」。すべての人の生活が変わりました。 本校(当時の勤務校)と縁のある「釜石」という場所が,津波により生死が二分した地域だということ,そこに身近な人々の死があり,それを受け入れる余裕もなく働き続けた人々がいることを,改めて思いました。 生き残った自分と,目の前に横たわっている遺体を分けているものは何なのか。 それは,偶然なのか。 今,「軸足」をどこに置くのか。 これからの「心のベクトル」は,どこに向けていくのか。 いまだに行方不明の方がおり,心の底から泣くこともできないご遺族がいることを,忘れてはいけない。 祈り
目 次 プロローグ 津波の果てに 「釜石市」地図 第一章 廃校を安置所に 第二章 遺体捜索を命じられて 第三章 歯型という生きた証 第四章 土葬か、火葬か エピローグ― 二ヶ月後に 取材を終えて