上巳の節句(桃の節句)。「虎教師」へ。
旧暦の3月3日は桃の花が咲く頃であることから,「桃の節句」と呼ばれます。
今では,旧暦で過ごすことはないと思いますが,自然を感じる暦だと思います。
桃の節句には,菱餅,ひなあられ,白酒,ちらし寿司,はまぐりのお吸い物などがお祝いの食べ物として並びます。
今夜の食卓は,いかがでしたか。
また,今日は「耳の日」です。
「み(3)み(3)」の語呂合わせで,この日になったと思いますが,三重苦のヘレン・ケラーに,サリバン先生が指導を始めた日でもあるそうです。
耳を大切にしていますか。
昨日の「虎教師への道」をお話された方が,その頃(1984年?)に寄稿された原稿があります。そこから長い引用です。
1 教師に権威がなくなったいかがですか。最近,いじめの問題と共に教師の暴力行為が,テレビ,新聞で大きく取り上げられている。
(略) 子供が親や教師の言うことを聞かなくなったのは,親や教師に権威がなくなったからだと言われている。
2 教師の権威とは
戦前の教師には,権威があった,とよく言われる。その権威とは何であっただろうか。
その一つは,「お前それでも日本人か」に代表される国家権力を笠に着た権威である。この権威は,かっての軍隊に象徴されるように,暴言,暴力をはじめ全ての権力が肯定され,正当化されてしまう。
民主主義の世代となた今日,暴力行為が問題となるのは,この暴力という権力を笠に教育をしていこうとする狐教師がいるということである。
ニつ目には,(略)
三つ目には,「あの先生のバレーボールは一流だ」「あの先生の授業はよくわかる」,「あの先生は,本当にぼくたちのことを考えていてくれる」といった個人的な人格やカ量を尊重し,その先生に従っていこうとする人格的権威である。
この権威は,個人が持つ力量によるものであり,暴力や伝統の威を借りるものではない。したがって,前二者を狐教師とするならば,この権威を備えた教師は,虎教師と言えよう。
3 教育者の条件
新教育の中で,「学者必ずしも良き教育者ではない」と,くり返し問い直されて40年,今また改めて考えなくてはならない時に来たようである。
ア 権力の上に成り立っている教育ではなかったか。
一見民主的に運営されている学校教育も,問題が起きた時には,教師の権力が顔を出し,「給食食べさせんぞ」といった暴言やげんこつで解決していくということが,多々あるのではないだろうか。
授業を静かにさせるために教師の権力をちらつかせたり,問題の解決を体罰にゆだねる方法でない教育方法や技術を身につけていくことが必要である。
イ 教育者としての研修を深めてきたか。
学力テスト,高校入試が先行し,人間としての教育をしていないのではないか,ということと,教師自らも教育者としての人作りの研修が浅かったのではないだろうか。
ウ 真に子供の味方であったか。
子供の教師ばなれが著しい。強くなったPTAという父兄に気をとられて子供との関係を甘くみていたのではないだろうか。教師は,子供のためにあることを,今一度確認したいものである。
4 最後に
教師は,人格的権威による虎教師になるための努力をすることが急務であることには間違いはない。
しかし,金で政治を賄う政治家,金で子供を釣る親など,金の威を借りる狐の中で,教師にだけ虎になれと言っても無理な相談である。狐同士仲よく話し合って,お互い虎になる工夫をしていくことこそ必要ではないだろうか。
「権威」を話題にすることが,今の社会で適当なのかを悩みますが,教育において必要なことだと思います。
現在の学校において「どのような“教師の権威”」が求められているか,そして発せられているか,それを確かめながら教育活動にあたっているでしょうか。
みなさん,どうお考えでしょう。