3-1.13 「奥平貞能(4)」 (作手村誌)
天気は回復しましたが、気温が低く肌寒い一日でした。
『作手村誌』(1960・昭和35年発行)は、「第一編 郷土と自然」から「第二編 村の沿革と歴史」へと続きます。
昨年の大河ドラマが鎌倉時代、そして今年は徳川家康を描いています。
『作手村誌』(1960・昭和35年発行)から「諸豪族勃興時代」の奥平氏についの紹介です。
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第二編 村の沿革と歴史
人物 奥平氏
奥 平 貞 能
(つづき)
天正元年八月二十日武田典廐使を馳せて貞能を黒瀬の陣営へ招く、貞能即ち奥平市左衛門、奥平六兵衛、黒屋禰兵衛等十余人を従えて到る。城所道寿及び典廐の老臣小池五郎左衛門迎えて曰く、卿近日浜松の徳川家へ内応の噂あるに係らず速かに来営したるは神妙なりと。貞能曰く、乱世にありては親は子を疑い子は親を猜うことさへあり、況んや余は去年浜松(徳川氏)を去りて武田家に帰属せるもの、浜松の徒余を憎んで反間苦肉の策を弄し、これがため訛伝流言を生じたるにあらんや、と敢えて意に介せざるが如し。信豊、障を隔ててこの言葉を聴き、出でて談を交えて曰く、卿の内通せる称するは素より確実なる証跡あるにあらず、只心底を糾さんとするに過ぎざるなりと、貞能重ねて其の理由なき嫌疑を斥け、曩に愛児仙丸を質子として帰参の誠を表わし爾来今日に至るまで従軍、転戦、聊か犬馬の労を致して怠る所なきを極力陳疏し、談世事に及びて従容自若たり、更に信豊の需めに応じて局に対す、挙止言動毫も平日に異るを見ず、信豊の意漸く釈く、是において営を辞し門外に出ず、城所道寿勿惶として走り来り貞能を招ぎて曰く、既に時刻なり湯潰を参らせんと、貞能かえりて馳走に預る。この時、小池五郎左衛門玄関を飛ぴ下り大音声に呼ばわりて曰く、「美作守(貞能)殿の反形竟に顕れて只今首を討取りたりと、従者聴きて少しも動ぜず、主人美作(貞能)に限りて異図を抱く者にあらず、と却つて其のざ妄なるを笑う。始め貞能作手を出でんとするや従者に向つて曰く、暇令へ黒瀬に於て如何なる珍事起ると雖も苟しくも余の首を見るにあらざれば決して軽挙妄動すべからずと堅く戒めおきたるためなり。而して五郎左衛門の詭計全く破れたるは笑止と謂うべし。
食事終りて後貞能、典廐等と尚閑談を続くるの際、土屋直村座に来り、敢えて卿を疑うにあらざるも真心を披瀝せんとせば誓書並びに重ねて質子を送致すべしと、再び貞能の夫人を需む、貞能悉く快諾し作手に急帰して世子(信昌)に事情の切迫するを告げ、予期の如く今夜実行するに決す。但馬勝正、夏目治員其の他重臣を招し潜に発動の準備を為さしむ。別に部下一般に対して、典廐の命を伝達すると称し各自随所に集合して静粛に控うべきを達す蓋し暗に勢揃いなさしむるの趣旨に出ず、而して準備の一着手として兵器鉄砲類を長棹に納めて搬出、潜行に便ならしむ是時、作手古宮城(元亀二年馬場信房の繩張りにて築きしもの)に在蕃して貞能を監視する甘利晴吉の目付初鹿野伝右衛門来り速に質子(貞能夫人)を本城に送るべしと督促して出ず、入替りて土屋直村の配下小笠原新彌、草間備前の両人来り、本日黒瀬会見の委細を承りて馬場信房へ報ずべしとの直村の使命を述ぶ。是より先黒瀬会見の席上において、直村未だ貞能の心境に対し釈然たらず、恐らくは今夜を以て退去するにあらん、貞能に面して詳かに其の言動を注視し、一人は馬場美濃守信房に急報し一人は直ちに帰営して復命すべしとの命を受けたるによる。貞能曰く、流石に右衛門殿(土屋直村)は信玄公の眼鏡に負かず若年ながら思慮の周匠亦人に過ぐと称揚措かず、閑談に時を移し大事の迫れるを知らざるものの如し。
(つづく)
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注)これまでの記事は〈タグ「作手村誌」〉で