集団「Emication」別館

楽しく学び,楽しく活動する,笑顔の集団「Emication」。 ふるさとの自然,歴史,風俗などお伝えします。読書や豆知識の発信もしていきます。 活動する人,行動する人,その応援と支援をする集団「Emication」。

2-1.4 初志の会誕生(1) (昭和に生きる)

花0302。 天気の回復が予報より遅かったですが、午後には青空の広がる天候になりました。  それに合わせるように、風が強くなり、暴風のような吹き方もありました。  故・渥美利夫氏が還暦の年に著した『昭和に生きる』(1987(昭和62)年刊)からです。  渥美氏の教育実践、教育論は、“昔の話”ですが、その“”そして“”となるものは、今の教育に活きるものです。これからの教育を創っていくヒントもあると思います。  本書のなかから、“その時”に読んで学んだ校長室通信を中心に紹介していきます。「考える」ことが、若い先生に見つかるといいなあと思います。  この項は、現代の教育へ続く「戦後教育史」を見ることができます。 ********     戦後教育史の片隅に生きる     青年教師時代   初志の会誕生  昭和三十年前後の教育界の動きを、かんたんにここで一瞥してみようと思う。なぜならそれは戦後教育の進路変更の着目すべき年代であるからである。  昭和二十七年、岡野文相は地理歴史教育を改めることについて、教育課程審議会に諮問することによって、きわめて露骨に新教育批判、なかんずく社会科の解体の意図を明らかにしてきた。教育課程審議会は諮問に答えるかたちで、昭和二十八年八月、「社会科改善についての方策」を打ちだした。委員たちは、さすがに文相の要望にそわなかったので、やむなく解体だけはまぬがれることになって、“形としての社会科”は、この危機をのりこえたのである。  この問題の年、民間教育団体は結びついて、社会科問題協議会を成立させた。それが社会科解体の阻止に大きな役割を演じたことはだれもが認めるところである。しかし、不幸にしてこの協議会は薄命であって、社会科という名を背負った。“異質の社会科”が和三十年には、堂々と指導要領という恰好をとって陽の目をみるにいたったのである。形としての社会科は残ったが、内容は異ったものへの移行をはじめたということになった。それがさらに補訂ということで三十三年度版の指導要領への動きが急になるにおよんで、教育界は騒然としてきたのである。  このような社会科改訂の動きに耐えきれないでいた人たちがいた。それは戦後社会科の誕生に生みの親としての苦しみを味わい、二十二年度指導要領、補説、学習指導法、そして二十六年度指導要領を作成し、経験主義教育の問題解決学習の育成に、文部省にあって推進してきた社会科担当官たちであった。その長坂端午東京教育大学)、重松鷹泰(名古屋大学)、上田薫(名古屋大学)、大野連太郎(国立教育研究所)の四氏は、もはや“社会科の初志”は破られてしまったという自覚から民間教育団体を設立して、“社会科の初志”を守ろうと立ちあがったのである。 雛祭り0302。 長坂氏らは“わたしたちの主張”なる冊子を作って、全国の社会科研究者、実践家に三十三年六月送り届けたのである。  “わたしたちの主張”の冒頭には、つぎのように書かれている。  社会科が誕生してから十年あまり、その間社会科はいくたびも試練に当面してまいりました。再三の改訂も、ともすればそのたびごとに本来の精神を弱めていく結果を招き、子どもの切実な問題解決を中心とする学習指導は日一日と影をうすめていくようにさえみえます。これからの状勢もまた、出発以来の社会科の考え方を堅持しようとする者にとっては、いよいよ楽観を許さぬものがあるといわなければなりません。そうした教師たちは、自分たちこそ子どもの成長を正しく守るのだと信じつつも、しつような抵抗にぶつかり、しだいに孤独におちいっていくのを避けることができないと思われます。  私たちは、こういうときにこそ、この苦しみを知る者が、ともに結びあい、励ましあうべきであると考えました。心ある教師の地道な指導と研究のよりどころとなることができるように、かたい組織がつくられるべきだと考えました。そのことによって、おたがいがこの暗い谷間の時代にたえ、あかるい光が日本の子どもたちの教室に降りそそぐ日を待つことが、いや、そういう日を導きよせることができると信ずるからです。…… (つづく) ********  注)これまでの記事は〈タグ「昭和に生きる」〉で  注2)掲載しているイラストは、学年通信(1993・1994年度)用に教員が描いたもので、図書との関連はありません。