集団「Emication」別館

楽しく学び,楽しく活動する,笑顔の集団「Emication」。 ふるさとの自然,歴史,風俗などお伝えします。読書や豆知識の発信もしていきます。 活動する人,行動する人,その応援と支援をする集団「Emication」。

1-6 少年の日の“ひがみ”(2) (昭和に生きる)

百貨店0214。 天気のよい一日でした。  明日、明後日と、気温の低い日になるようです。この寒さが過ぎれば、徐々に暖かくなり、“”に向かっていくかな。  故・渥美利夫氏が還暦の年に著した『昭和に生きる』(1987(昭和62)年刊)からです。  渥美氏の教育実践、教育論は、“昔の話”ですが、その“”そして“”となるものは、今の教育に活きるものです。これからの教育を創っていくヒントもあると思います。  本書のなかから、“その時”に読んで学んだ校長室通信を中心に紹介していきます。「考える」ことが、若い先生に見つかるといいなあと思います。  この項は、「昭和62年『考える』116号」から構成されています。 ********     昭和に生きる     少年の日の“ひがみ”   千人針  わたしがいいたいことは、これからのことである。  昭和十二年七月七日、北京郊外の蘆溝橋に端を発した事変は、その月の終わりごろには北支那全体に広がり、八月になると上海にも飛火して、それから先はとめようもなく戦火は拡大の一途を辿るようになる。「暴支膺懲」のスローガンのもと、日本は“天に代わって”中華民国国民政府をこらしめるのだと宣伝し、国民の士気を鼓舞した。国内にも戦地にも「露営の歌」が爆発的に流行し、日の丸の旗の波に送られて大陸へ動員されていく兵士たちの切ない心情が愛唱された。不拡大方針は空語にすぎず完全な戦時突入となった。なんのことはない、わたしの少年時代はべったりと戦争におおわれていたのである。つまり、わたしは自分の少年時代を語るのに、戦争は切っても切れない存在で、どこまでもどこまでもつきまとって離れない存在なのである。  戦争が拡大されるにつれて、若い青年に召集令状が届くようになってきた。兵士を送る歓呼の声は駅頭にこだましていた。その出征兵士に武運長久を祈る“千人針”なるものを親戚縁者が作って贈るといううるわしい慣習がそこにはあった。手拭の長さの倍ぐらいの腹まきを想像していただきたい。出征兵士の無事を祈るために、長い布に千人の男子が丸印を押し、女子が赤い糸で布に縫いだまを作るのである。女子も千人が必要ということになるので、これは並大抵のことではできない。しかし、ここに一つのおまじないが生きていた。それは“トラは千里を馳けて、千里を戻る”という故事にならって、トラ年生まれのものは、その年の数だけすることを許されるという厳然たるオキテがあったのである。  当時、トラ年は大正十五年生まれ、昭和元年生まれの昭和八年入学の子どもたちで、残念なことに早生まれの昭和二年は該当しない。トラ年が小学校に在学しているといえば、十数個は一人で受けもつことができるのだから、学校で一挙に片付けてしまおうというのは賢い作戦であったというべきであろう。学校の放課をねらって、多くの方々が学校を訪れて、千人針の作成に余念がなかった。 数学0214。 大正、昭和元年生まれのいわゆる遅生まれのものはぱ“時代の寵児”として、得意がってわざわざ大きな声で数を数えながら印を押していく。情けないかな同じ教室で勉強しているのだがウサギ年のものは、わずか一個しか朱印は押せないのである。得意になっていくつも押す同級生を横目でチラッと見ながら一つしか押せない腕白小僧の胸中は察するにあまりあるものがあるのではないか。依頼にきた人からは、この教室にいるのに一つしか押せないのかと白眼視され、トラ年のものからは、なんだ一つかと軽蔑視される二重苦をいやというほど味わされたのである。ときに、トラ年になったつもりで十いくつかの印を押して、うらみをはらすことをするのだが、そのあと味のわるさといったらいいようがなく、苦悩の深淵にあえぐこととなる。なんとも苦痛な千人針の思い出である。  このとき、いつもわたしは“世代の断絶”といった屈辱を感じずにはいられなかった。 (つづく) ********  注)これまでの記事は〈タグ「昭和に生きる」〉で  注2)掲載しているイラストは、学年通信(1993・1994年度)用に教員が描いたもので、図書との関連はありません。