文珠山城址 (作手見聞録)
午前中は晴れていましたが、午後になると曇って肌寒くなりました。
先日、銀杏の下にギンナンが敷き詰められたように落ちていました。ここではギンナン拾いをする方はいないようです。
もし頂いたとしても、持っていくと…。臭いが…。
旧作手村が、地域情報をまとめたA5サイズの冊子『作手見聞録』を作成し、配付していました。数回の更新があり、表紙の異なるものがありました。
発行年が明確ではありませんが、手元にある冊子から順に紹介します。
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作手見聞録
こんなに楽しい作手の五城址
文珠山城址
須山善福寺の老杉の石段を登りつめ、本堂の横から裏山の杉林に入ると小道が斜についている。稜線に出て石仏の点々とつづく尾根道を、なおも東北に進むとやがて文珠堂への石段前に出る。標高約660m、眺望が開けて作手三六郷は一眸の中に入る。麓の須山集落との比高差160m。
石段を登ると長径48.6m、短径27.3mの隅丸長方形の本丸があり、周囲に摺2m、高さ1mの土塁を繞らしており、南方(大手口)と東方(搦手口)に虎口がある。土塁の高さが幅に比べて低いのは、多年の風雨によリ流失したからであろう。
本丸の下、比高差5〜7mの所に、平均幅約5m長さ190mの帯曲輪がぐるりと一周しており、北方の一部と搦手・虎口付近30mが空濠となっている。塞之神城への尾根を少し行くと第二空濠がある。規模はほとんど同じで、深さ4m、幅5m、長さ17mで、両端は山地に開放している。
本丸中央には石積方形の基壇上に、文珠菩薩石像を安置する堂があり、石像台石に「西須山村 東市場村」と刻まれ、ここが昔の村界であったことが分かる。その右に宝筐印塔(近代)、左手に笠付円柱墓塔があり、近世から近代にかけ信仰の山であった。 この城は亀山城の詰の城であるから、応永年間亀山城と同時に築城されていたはずである。武田氏にしてみれば目の上の瘤にも等しいこの城の増強を、強談判までして促す必要があるであろうか。真相は武田氏の塞之神城改築に対応し、急拠この城にも修築が加えられた。現地をみればこの城が一夜でできないことは一目瞭然である。強いて言えば、工事が完成してから周囲の木を伐採、そこに忽然として現われた城をみて、あたかも一夜にして作った如く取沙汰されたのではあるまいか。本城に井戸はないが第一空濠の東南方、すこし離れた地点に凹地があるから、ここに天水溜があったかも知れない。
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注)これまでの記事は〈タグ「見聞録」〉で
【掲載記事から】
◇文珠山城址と塞之神城址 (作手の名勝と史跡めぐり)(2021/04/29)
◇「爽やかな風に吹かれて」(古い資料から)(2022/06/03)