集団「Emication」別館

楽しく学び,楽しく活動する,笑顔の集団「Emication」。 ふるさとの自然,歴史,風俗などお伝えします。読書や豆知識の発信もしていきます。 活動する人,行動する人,その応援と支援をする集団「Emication」。

亀山城址 (作手見聞録)

銀杏1111。 寒い朝、そして暖かい日中でした。少しずつ慣れてきましたが、大きな寒暖差に体が“辛さ”を訴えているような感じがします。  新型コロナウイルスの感染者数が増加しているようです。  ウイルスから逃れることはできません。体を健やかに保ち、自然治癒力を高めていくことが一番でしょう。手洗いうがい顔洗い、そして手指消毒など感染予防対策を励行し、健康に過ごしたいと思います。  みなさんも、お気を付けください。  旧作手村が、地域情報をまとめたA5サイズの冊子『作手見聞録』を作成し、配付していました。数回の更新があり、表紙の異なるものがありました。  発行年が明確ではありませんが、手元にある冊子から順に紹介します。 ********     作手見聞録     こんなに楽しい作手の五城址   亀山城  南北に細長い作手村の南西部、大宇清岳の半独立性丘陵上にある。本丸の高さ海抜547m、平坦面との比高差30mであるから、平山城である。城地の周囲は水田で、東南方一部が山地につづいている。城主奥平氏徳川家康の女婿に当たる信昌を出した家で、幕末豊前中津一〇万石を領した。奥平貞俊が上野国奥平郷より来て、この地に土着し最初に築いたのは川尻城である。その晩年には勢力を拡大し、城地が手狭になったので、応永三十一年(1424)当城に移り、爾来二代貞久・三代貞昌・四代貞勝・五代貞能まで五代165年間、奥平氏の本城として栄えた。天正十八年関束移封により廃城となったが、六代信昌の四子忠明が祖父家康の養子となり、慶長七年父祖の故地であることから、作手一万七,〇〇〇石を賜わリ入場したが、在地八年で伊勢国亀山五万石の城主に移封され廃城となった。  〔本丸から東へ〕長径60m、短径28mの楕円形で、周囲に土塁をめぐらし、二の丸と西曲輪へ出る処に虎ロ(出入口)がある。土塁の遺存は概して良好で、北側で一部流失しているが、両虎口で高さ3m、南側中央で2m、摺幅(上端幅)2.5mある。古図だと両虎ロとも喰違い形式となっているが、現状ではその土盛は全く流失している。本丸の北斜面は極めて急峻で、自然斜面を削り取って急斜面としたらしく、土塁下10mの処に、犬走りと思われる狭い平坦面がある。  南方土塁は、古図だと横矢がかりの如く鍵の手に屈折しているが、実地にその形跡はない。本丸址は公園化し、ベンチを配し桜など樹えた中央に、大正五年建立の「亀山城跡 愛知県」の記念碑がある。  二の丸は本丸の東に連り、不整方形33mに29m、本丸より2.4m低い。周囲をめぐる土塁は盛土の流失著しく、南側で約1m、北側で最高2.6mを測るにすぎない。この土塁を切って東側に虎ロがあリ、喰違い形態が痕跡から知れる。南側隅にも本丸土塁との間に幅6m程の虎口があり、空濠に通じている。土塁の外斜面は急で、南及び東側5mで平坦面に、北側は自然急斜面で下方に向う。
亀山城址1111。
 二の丸虎口を4.5m下った処に、幅10m、長さ20mほどの不正長方形の腰曲輪があり、古図だと左右二ヶ所に通用口が書かれているが、現状では一ヶ所しかない。またその下に鍵の手と長方形の、それぞれ土塁をめぐらした曲輪が描かれているが、現状ではその面彭はなく、幅10m〜15m、長60mの平坦面をなし、三の丸と称していい規模である。外方5m下は農道であるが、昔からこのとおりか、それとも農道開通によりこうなったのか明かでない。古図の扇形曲輪は現状では不明である。
********  注)これまでの記事は〈タグ「見聞録」〉で 【掲載記事から】   ◇亀山城址 (作手の名勝と史跡めぐり)(2021/05/12)   ◇「四代貞勝と石橋館」(続 つくで百話)(2019/12/17)   ◇「二代貞久と亀山城」(続 つくで百話)(2018/12/11)