奉安殿(奉安庫)について
冷え込んだ朝、田畑の草には白いものが…、霜が降りていました。
秋から冬へと季節が変わっていくようです。
以前、岡崎市に住む知人から「奉安殿(奉安庫)について」の資料をいただきました。これまでも、教育に関する情報や資料が届き、参考にさせていただきました。
先日、「昭和の教育」が話題になり、この資料を思い出しました。
奉安殿(奉安庫)は、終戦後にGHQ(連合国軍総司令部)の指令で一気に撤去、解体が進み、残されていません。資料のなかに「市内の○○と○○に奉安庫が保存されている」とあり、そこで尋ねましたが、職員に知る人はいませんでした。またの機会に調査してみたいと思います。
奉安殿を調べると、
戦前の学校に必ず設置されていた施設で、天皇皇后両陛下の写真(御真影、御影ともいう)及び教育勅語を安置していた建造物。奉安所や奉安庫とも言われる。 学校における最重要施設で、前を通るときは最敬礼をしなければならず、御真影の取り扱いには最大の敬意と細心の注意が払われた。これは学校長の最重要職務であり、焼失の責任をとって自害した校長もあったほどである。 忠君愛国教育の象徴として君臨していたが、戦後破却されたため、ほとんど見ることができず、幻の建造物となっている。とありました。 以下、いただいた資料より。 ******** 奉安殿(奉安庫)について 1890年(明治23年)10月、明治天皇の名のもとに教育勅語が発布され、御真影(天皇・皇后の肖像写真)と共に、全国の学校ヘ下付され、学校行事での奉読が指示されました。校舎内に保管するのが一般的で、強固な金庫的奉安庫を造りました。 しかし、火災などによる管理面の不備を避けるために1920年から校庭等に耐火耐震構造の奉安殿が建てられるようになりました。 その後、1935年(昭和10年)頃から屋外に奉安殿・奉安庫が建てられるようになり、御真影は、益々、神格化されて日常において教員・生徒等は登下校時に必ず整列して最敬礼をし、式典時には校長が正装でそれを奉読、忠君愛国主義の象微となりました。 終戦とともにGHQの指示の下、奉安殿の撤去が指示されました。 1948年までに多くが解体又は地中に埋められました。 愛知県内には、名古屋市、一宮市、春日井市、瀬戸市、西尾市、半田市、西尾市など10か所で稲荷、倉庫、納骨堂、火薬庫などに転用されて現存しています。 奉安庫は、昭和48年まで美合小学校で保管されていましたが、現在は、市郷土館に保管(展示)されています。 (略) (注) 奉安庫は、調査を進めれば、今後も発見される可能性があります。 教員の宿目直制度について 教員の宿目直制は、1950年代まで行われていましたが、その制度が設けられたのは、次のことが発端です。 明治後半以後、学校の規模拡犬に伴い、授業時間外の学校警備が問題として意識されるようになりました。 また、御真影(天皇陛下、皇后陛下の写真)の下付に当たって「奉安殿」「奉安庫」の設置とともに「奉衛規則」の整備が必須要件とされました。 その規則には、非常時の際の警護・奉遍の手順などとともに、それに直接あたる教員の宿日直制が規定されました。 これに伴い、大正・昭和の学校管理事項の中に「御真影及び教育勅語謄本の奉置と守護、それに関わる宿直」が規定されました。 このように、教員の宿日直制度は、奉安殿・奉安庫に保管されている御真影の保護のために始まったものです。 過去、火災により御真影を焼失させてしまった学校の校長が自殺した等の理由により、以後、学校敷地の外に強固な建物の奉安殿が建設されるようになりました。 (略) ******** 【関連】 ◇教育勅語(明治神宮) ◇「御真影」物語(Webマガジンまなびと)