6(5-15) 苦しい生活に耐えて (わたしたちの村つくで 改訂版)
予報は昼頃から雨になると伝えていましたが、午前中から雨になり、時々強く降る日になりました。
今日、新型コロナウイルス感染から回復した若者とあいました。
「感染経路は分からす…。朝起きたら体がだるくて、熱もあって…。病院でPCR検査して…。ホテルに隔離されて…、2週間ほど…。」……
元気に回復し、日常がもどっていました。
連日、感染状況の報道があります。症状により対応は異なるようですが、医療関係者の疲労は…、隔離施設の確保は…、措置の費用は…、気になりました。
「感染者が2000人…」をもっと気にしないといけないでしょうし、その対応の情報も得ておきたいと思いました。
感染予防の励行を!!
郷土読本『わたしたちの村 つくで』(2004新改訂版発行)の「6 作手村のうつりかわり」からです。
********
5 明治から平成へ
戦後の作手村
苦しい生活に耐えて
戦争が終わり,平和がもどりました。しかし,生活は戦争のころよりももっと苦しくなりました。それでも,何年かするうちに少しずつ,明るい生活ができるようになっていきました。
食べられさえすれば
戦争が終わっても,しばらくは食べるものにも苦労したな。山に入っちゃあ,食べられそうな草や木の芽を取ってきて,ごはんにまぜて食べたね。お米も足りなかったので,サツマイモのくきや葉,それに麦を入れてごはんをふやして食べたよ。麦なら上等だったね。
お酒もなくて,配給のきっぷをためておいて,結婚式の祝い酒に使ったよ。町の人もこまっていて,反物や自分で作ったたけみを持ってきたので,お米とかえてあげたよ。
(菅沼 原田日農武夫さん)================================== 何でもがまんだったよ
戦争が終わるころ(小学校3年生)から,こづかいかせぎに新城までまきを売りに行ったものさ。しょいこで背負ってね。土曜日の午後や日曜日は,よく行ったよ。1日に2往復したこともあったな。田代からだと4時問ぐらいあれば往復できるからね。こづかいをためて修学旅行へ行くお金の足しにしようと思ったんだけど,修学旅行は結局中止になってね。悲しかったなあ。
えんぴつや消しゴムはかんたんに手に入らないので,とてもだいじに使ったよ。竹のさやを作ってキャップにし,短くなるまで使ったもんさ。教科書は高くて買えなかったから,姉や近所の人にもらって使ったよ。着る物は,木綿がなくて,桑の皮で作った服を着たよ。ざらざらして肌ざわりが悪かったなあ。
学校へは,わらぞうりで行ったよ。室内用もわらぞうりだったので,教室にわらのくずがいっぱいたまってね。今でもよ仁思い出すよ。わらぞうりは,がまんすることを教えてくれたんだよ。
(田代 太田幸男さん)
********
注)これまでの記事は〈タグ「新わたしたちの村」〉で
注2)郷土副読本は,小学3,4年生に向けて「ふりがな・るび」がたくさん付いていますが,掲載にあたっては省いています。
注3)多くの写真や図版が載っていますが,すべてを紹介(掲載)していません。ご了承ください。