6(3-4) おふうの悲劇(後半) (わたしたちの村つくで 改訂版)
天気のよい暖かい一日でした。
当地でも朝の気温が10度を超えており,出先では日中23度でした。4月に,こんな気温になっていては,真夏にはどうなってしまうのかと心配になります。
今週は,台風の進路や影響も気になりますが,“春らしい気候”であってくれるといいなあと思います。
郷土読本『わたしたちの村 つくで』(2004新改訂版発行)の「6 作手村のうつりかわり」からです。
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3 戦いにあけくれたこと
奥平貞昌と長篠の戦い
おふうの悲劇(後半)
徳川方についた貞能は,家康と行動をともにし,貞昌は長篠城主となりました。
勝頼は1575(天正3)年,甲州をたち,三河に向かって進んできました。ここで有名な日本の歴史を左右する長篠の戦いがおこるのです。
21歳の貞昌は,500人の兵で,1万5000人の武田軍と戦いました。 貞昌は岡崎の家康に援軍を求めるたね,鳥居強右衛門勝商を脱出させました。強右衛門は,城の横を流れる寒狭川(豊川)を泳いで城をぬけ出し,雁峰山でのろしを上げました。そして,荒原で馬を借りて野郷を通って岡崎に行き,家康と信長に援軍を頼んだといわれています。そして,織田・徳川の連合軍が武田を打ちやぶりました。
この戦いの活躍により,貞昌は家康から亀姫を嫁にもらい,信長からは「信」の一字をもらい,「信昌」と名乗りました。そして,新城城主から上野国(群馬県)宮崎の城主となり,さらに美濃国(岐阜県)加納10万石の大名にまでなりました。
江戸時代のはじめには,信昌の四男松平忠明が亀山城に入り,作手の地を治めています。忠明は家康の養子で,後に大阪城主や姫路城主となり,西国探題まで出世します。
信昌の子孫は,豊前国(大分県)中津10万石の大名として明治をむかえ,今日まで続いています。
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注)これまでの記事は〈タグ「新わたしたちの村」〉で
注2)郷土副読本は,小学3,4年生に向けて「ふりがな・るび」がたくさん付いていますが,掲載にあたっては省いています。
注3)多くの写真や図版が載っていますが,すべてを紹介(掲載)していません。ご了承ください。