青い矢羽根マーク。 2.(12-1) 戦後の作手村 (わたしたちの村)
「不安定な天候で…」と予報されていましたが,青空に夏雲が目立つ,真夏日の暑い一日でした。
しばらく前から道路に「青い矢羽根マーク」が描かれているのを見かけるようになりました。地区の国道にも描かれました。
初めて見る標示です。
調べてみると「車道混在」で自転車の走れる道路を示すもののようです。
今日の夏雲。
夕方からは激しい雷鳴。そして豪雨。
ビックリ!
自転車の通行領域を青い矢羽根などで明示しながらも,自動車やバイクなども走行出来るような道路。矢羽根などで通行部分を示したところを自転車走行指導帯と呼ぶ。 自転車走行指導帯とは,道路交通法上,自転車が通行すべき「車道の左側端」を路面表示等により明示した部分をいう。道路交通法で決まっているとはいえ,当地のような地域では“歩道通行可”とした方が「安全」だと思うのですが,そうはいかないようです。 “安全”のために…。 郷土読本『わたしたちの村 つくで』(1995・平成7年 改定発行)の「二、作手のうつりかわり」からです。 ******** (十二) 戦後の作手村 1 苦しい生活 敗戦によって,長くて苦しかった太平洋戦争は終わりました。もう戦争はしないように,平和な国づくりが始まりましたが,人々の生活はますます苦しくなるばかりでした。戦争中から,物の値段はだんだん上がっていましたが,戦争が終わると,急にはげしく上がり始めたからです。 1945(昭和20)年から1955(昭和30)年の10年間に,電気斜は54倍,はがきは111倍にもなりました。主食である配給米の値段も,3円57銭であったものが,5年の間に445円になり,125倍にもはね上がりました。 物不足もはげしく,生活に必要なものは,ほとんど配給になって,ほんの少ししか手に入らなくなり,みんな苦しい生活をがまんしなければなりませんでした。 こうした物不足の中で,特に人々の生活をおびやかしたのは,食料の不足でした。配給の食料だけでは生きていけないので,農業をしていない人たちは,農家にたのんで着物や洋服・道具とサツマイモなどの食料とを交換してもらいました。 ******** 注)これまでの記事は〈タグ「わたしたちの村」〉で 注2)郷土副読本は,小学3,4年生に向けて「ふりがな・るび」がたくさん付いていますが,掲載にあたっては省いています。 注3)多くの写真や図版が載っていますが,すべてを紹介(掲載)していません。ご了承ください。