掃除・祇園。2.(9-2) 日清戦争・日露戦争のころ (わたしたちの村)
早朝(5:33)に大雨警報が発令され,今日も雨の一日でした。
大雨警報が出ていましたが,当地は弱い雨で,屋外の活動もできました。
午前中,地区の神社の掃除と祇園の祭りがあり,氏子が出て行いました。
久しぶりに神社に行くと,「何だ,これは?」と声の出るようすでした。今までにない"大きな草”がにょきにょきと伸びていました。
そうした草を刈り,境内の草を取り,落ち葉を片づけました。社殿の屋根にも落ち葉などが目立ちますが,雨のあとでもあり安全な作業に留めました。
雨の影響なく,綺麗にできました。ありがとうございました。
それに続く祇園の祭礼で,「疫病や災害が起こらないよう,疫病神の怒りを鎮めるよう」,地域・地区の安寧を願いました。そして,大雨の被災地の方々を思い,早い復旧を祈りました。
郷土読本『わたしたちの村 つくで』(1995・平成7年 改定発行)の「二、作手のうつりかわり」からです。
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(九) 日清戦争・日露戦争のころ
2 日清戦争
1894四(明治27)年に日清戦争がおこりました。世界の大国である清国(中国)と日本は戦争を始めたのです。
この戦争には,作手村からは23人の人が兵隊になっていきました。さいわい,みんな無事に帰ってくることができました。
3 日露戦争
日清戦争がすんで10年たった1904四(明治37)年に,日本は世界で一番強い陸軍を特っていると言われたロシア(ロシア連邦)と戦争を始めました。
日露戦争が始まると,作手村の若者にも次々に召集令状が来ました。召集令状というのは,兵隊になることへの命令書のことです。
この戦争に,作手から出て行った人は120人で,このうち15人が戦争のためになくなりました。
4 産業と生活
日清戦争のころから,日本の工業は大変進んできました。それとともに,おくれていた農業も,少しずつ進歩してきました。
作手村の交通は,あいかわらず不便でしたが,米つくりを中心とする農業は,とても進んできました。
1892(明治25)年と1911(明治44)年の,作手村の米の収穫高を比べてみると,右の表のように,田の面積は1.2倍しかふえていないのに,とれ高は2.2倍近くもふえています。
それにつれて人びとのくらしかたも,少しずつ変わってきました。
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注)これまでの記事は〈タグ「わたしたちの村」〉で
注2)郷土副読本は,小学3,4年生に向けて「ふりがな・るび」がたくさん付いていますが,掲載にあたっては省いています。
注3)多くの写真や図版が載っていますが,すべてを紹介(掲載)していません。ご了承ください。