ジョーク? 2.(8-1) 明治の初めの作手 (わたしたちの村)
時おり雨の降る,曇りの日でした。
ネットで調べ物をしていて,"ジョーク”として次の話がありました。(ウェブ会議にて)
「そういえば君のいるイギリスは,トイレットペーパー不足で困ってるって?」
「ああ。でもウチはいま代用品でなんとかしのいでるよ。それにしてもロンドンタイムズはお堅いね」 新型コロナ禍で買い占めが問題になっていた頃に載ったようです。
ウェブ会議が一般的になり始める頃で"今どき”なのですが,この話で笑いのポイントは,どこ? そして,笑えるのは,どの世代?
ちょっとモヤモヤした笑いでした。
郷土読本『わたしたちの村 つくで』(1995・平成7年 改定発行)の「二、作手のうつりかわり」からです。
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(八) 明治の初めの作手
1 愛知県の成立
明治維新によって,日本の国は大きく変わりました。
1871(明治4)年に,それまでの藩がなくなり,県がおかれました。1872(明治5)年に愛知県ができるまで,作手がどのような県に入っていたかは,下の表のとおりです。
4年あまりの間に,4回も県が変わっており,めまぐるしい動きであったことがわかります。
額田県ができた時,県の中を9つの大区に分け,さらに大区の中をいくつかの小区に分けました。そして,小区ごとに戸長という役目をおいて,村を治めるしごとをさせました。
作手にあった33の村は,第八大区の第二小区になりました。だから,作手全体で,一人の戸長があったわけです。
愛知県になると,県の中を15の大区とし,作手は第13大区の中へ入りました。南と北に分かれる前の設楽郡が13大区でした。
13大区の中は,3つの小区に分かれました。今の菅守学区の6つの村は第三小区,荒原・田代・大和田の3つの村は第二小区に入り,そのほかの作手の村24が第一小区でした。
愛知県では,それぞれの村ごとに戸長をおきました。戸長は,国や県のさしずにしたがって,村を治めるしごとをしていました。
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注)これまでの記事は〈タグ「わたしたちの村」〉で
注2)郷土副読本は,小学3,4年生に向けて「ふりがな・るび」がたくさん付いていますが,掲載にあたっては省いています。
注3)多くの写真や図版が載っていますが,すべてを紹介(掲載)していません。ご了承ください。